本

『アメン父』

ホンとの本

『アメン父』
田中小実昌
河出書房新社
\1240
1989.2

 以前読んだような気がしていたが、たぶん、書評か何かを読んだだけだったのだろう。このたび、教会のある方の勧めで貸して戴き、読みとおした。
 はたしてこれを、小説と呼んで然るべきか、一種の自伝のようなものと見るべきか、それとも父親の記録として読んだほうがよいのか、その辺りは、文学というものをどう捉えるかによって異なってくるだろう。つまり、答えはない、ということだ。
 創作だというのは多分当たらない。当時の状況の細かな設定や描写が創作であるとはとても思えない。また、創作であれば事実に合う記録のようなものがここまで創作できるというわけではないはずだと感じる。自分の父親である。せめてその父親の存在の事実を遺しておきたくなった、一人の息子の考えを想定するならば、そのように思う。
 単に自分の思い出話を聞かせている、という体裁なのだ。
 章立てはないし、常に呟きのように独白しており、途中に見出しを付ける間もなく話がだらだらと続いたり気紛れに別の話に移ったりしている。とにかくたんに思いつくままに話をしているというようにも見えるのである。
 と、こういうところまで計算ずくで執筆しているようなふしもあるから不思議である。ならば、これはまことに文学であるにほかならない。見事である。
 この父親、牧師である。著者自身、もう亡くなって十年ほどになるが、牧師の息子というにはあまりに自由に、あるいは放蕩的に生きた人であったが、その名前はもしや「カミサマ」の変形ではないだろうかとも言われている。牧師であった父親自身、いろいろ風変わりな人であった様子が窺える。その細かな部分は実際に読んで出会うのでなければ面白くない。
 息子として、この父親を見つめているし、資料も各地から取り寄せている。それを終わりなく流れ続ける川の水のように流してひとつの作品に仕上げている。あまり説明をしようとしない父、その信仰の姿を息子が垣間見ている。いや、せっせと盗み見しているのだ。父の信仰の姿がどのようであったのか、ちゃんと見ているのだ。
 私もまた、息子からどのように見られているのだろうか、ということが気になった。その上で、息子たちもまたいつか、「アメン父」を書くのではないだろうか、とも感じた。
 福岡にも縁のある著者である。西南学院中学など、地元の名も現れる。そして、どうにも信仰に熱心だとは言えないようなこの息子が、語らざるその父親の信仰や内面的なことを、精一杯推測しながら資料を辿っている様子が、ありありと伝わってくるのである。だからこれは確かに、文学なのである。
 キリストを信じる者は、これを見ると行間の何かが伝わってくるのだろうと感じる。だからまた、果たしてクリスチャンでない人が当然読むということを想定して書いた著者の心理はどうであっただろうか。この父親の信仰に対する姿勢や考えは、クリスチャンだったらかなり分かるような気がするのではないかと思われる。
 まとまった形式があるわけでなく、ただ思いつくままに流しているようで、やはりそこはきっちり考えた構想があって、この形に落ち着いたことだろう。
 イエスとの出会いを求めていたこの父親の姿は、私たちにも確かに響くものがある。当時の状況と今の状況、もちろん社会的にもずいぶん違うのであるが、魂の部分においては、本質的に変わるものではないだろう。信仰の問題は、明治大正の昔の型がそのまま今通用するとは思えないが、信仰が一つであるならば、私たちはそこに祈りを重ね合わせたいと思う。父親が戦前としてはかなり危険を冒しつつ、けじめのついた信仰を持っていた様子も伝わってくる。
 いつの間にか私はこの父親の立場で読んでいた。どちらから見ても面白いだろう。味わい深い何かがここにはある。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system