本

『愛の思想史』

ホンとの本

『愛の思想史』
C.リンドバーグ
佐々木勝彦・濱崎雅孝訳
教文館
\1890
2011.5.

 テーマは「愛」。哲学的な思考も必要であろう。いや、プラトン以来、それが適切であるかもしれない。この本もまた、それを扱う。ただ、著者は神学者である。キリスト教神学を深く知る人であるからして、その「愛」がキリストの愛、神の愛につながるであろうことは容易に想像されであろう。
 ただし、キリスト教の宣伝のためにこの本が書かれたのか、というと必ずしもそうではないだろう。定説となっている、「アガペー」と「エロス」との対比がどこから来ており、また果たしてその通説がイメージさせるように単純に切り分けてそれでよいのかどうか、そうした問題についても問が投げかけられている。
 それでも、やはりこの本は、聖書の「愛」が主軸をなす。歴史的経過をたどりつつ、結局神の愛が、私たちの想定する「愛」の基盤であり規範であるだろうことが、ますます明らかになっていくようになされているように見える。
 それだからこそ、私はこの本を手に取った。そのような視点から、思想史における「愛」についての、人間の理解をたどっていきたかったのである。この本は、その期待に沿っていた。思想の内容に加え、その思想家のエピソードもふんだんに取り入れ、ドラマチックにその思想を紹介する。だからこの本は、抽象的な思弁で綴られているのではない。切れば血を吹くような、人間味あふれる解説なのである。
 まず、愛というその語の成り立ちから。続いてそれを聖書の中から捉え、その後の初期キリスト教世界での受け止め方を、ギリシアやローマとの関係から説明する。アウグスティヌスのカリタスの考え方が大きな存在であることを示すが、続く中世のアベラルドゥスとベルナルドゥスとのエピソードが面白い。神秘主義者やスコラ哲学者も見逃さず、やがて宗教改革において、それは信仰箇条のようなものの変化に留まらず、愛の概念においても大きな変革を遂げるということが強調される。その宗教改革が、敬虔主義という精神により近代的な姿で私たちの感覚に近くなっていく。その近代世界と私たちへの流れを導いて、本は、私たち自身への問いかけとなって続いていく。
 学術的な背景を備えておりながら、読む者にそれを強いさせず、読み物としての楽しさを十分提供して、一読でさわやかな味わいを遺してくれている。だから、小説ではないものの、小説がご趣味の方も楽しめる感覚ではないだろうかと予想する。
 それにしても、私たちが「愛」と呼ぶものが、いかに自分本位であることか、思い知らさせるようである。古代人が愛と呼ぶものと比較することにより、自分の歪みのようなものに気づかされる思いである。私たちは、自分の目で、自分の立場でものを見る。それが自分にとり基準であり、それがすべてである。自分をこそ当たり前だと誰もが思う。だから、自分の偏向については自分が悟ることは困難である。たとえ自分ひとりが曲がっていても、自分から見れば、世界すべてが歪んでいるのである。「愛」は、古来、人が大きな価値あるものとして認めてきた。そんなものは関係ない、として世の中は金だとほくそ笑む人がいたとしても、その人はまさに金を愛しているのであって、およそ愛と無関係に生を営むことは不可能であろと思われる。「愛」は、生きることそのものでもあるのだ。それを、人たるものはどのように見つめていたのか、どう捉えていたのか、それは取りも直さず自己をどう認識するかということに関わっている。カントが、理性そのものを捉え直そうとしたように、私たちもまた自身をこの「愛」というテーマで見つめようとしているのではないかと思うのである。
 たまたまこの本は、キリスト教という主軸でそれを捉える。中には、日本における慈悲的なものや、集団との一体感の中に、「愛」とここで呼んでいるものを考える人がいるかと思う。そう、この本にはそうした日本的背景は考慮されていない。気に入らないという方もあろうかと思うが、キリスト教とギリシア思想という、およそ相容れないようなものから成り立つ西欧文化は、私たちが思う以上に私たち現代の日本人の精神を侵食しているのではないか。だとすれば、この本とて、クリスチャンでなくとも、無関係なことばかりではあるまいと思われる。
 最後は自分への問いかけとして、「愛」が顔を覗かせる。そういう読み方を、私たちはもっとすべきである。いや、しているはずなのに、頽落の中にへらへら笑っているばかりであるかのようである。はたして「愛」とは何か。まずは、問いかけてみたい。そのためのガイドとして、読み進みやすい本の一つであることは間違いない。




Takapan
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