本

『ヴァイマル憲法とヒトラー』

ホンとの本

『ヴァイマル憲法とヒトラー』
池田宏士
岩波現代全書
\2500+
2015.6.

 岩波書店でこのタイトルなので、だいたい方向性は予想できるのであるが、確かにヒトラーの時代の政治というものには、興味がある。どうしてドイツがあの流れの中で、どこか狂気に満ちたような色に染まっていったのか、知りたいと思う。恐怖により逆らえないようにしている政治とも違う。当人たちは、自由の発現であるという確信犯的気分なのであって、自分の側でそれが悪ではなくむしろ善であると思っている中での出来事だと思われるのである。
 あの虐殺についても、ヒトラーだけが悪かったのか。そういう疑問は、一方ではネオナチと呼ばれる新たな右翼を生み出すし、それは戦後そう間もない時代から起こっている。まして、ヒトラーの時代を知らない世代が大半を占めるようになってからは、ますますその考え方を支持する向きも増えてくる。
 戦後40年のとき、荒野の40年と題したヴァイツゼッカー大統領の演説は、世界を駆けめぐり、大いに称讃あるいは議論された。あれは何だったのか。しかし今や、あの路線は継承されていると言えるのかどうか。だが、やはりナチス政権の成立とそのときの人々の支持のありさまなど、そちらがより関心事であると言える。
 歴史の詳細については、本書を直に辿って戴きたい。私の理解やまとめに、不備や誤解があるといけないからだ。ただ、恰もナチス政権が、当時の民主的な最先端と言われたヴァイマル憲法を無視して横暴な方法でのしあがったかのように持ち出す政治家が現代にもおり、また、ナチス憲法に変更したためにああなったのだ、などと演説して自分の党はそれとは違うのだとでも言いたげな政治家も現れるとなると、著者は黙ってはおれなかった。歴史を見る限り、ナチスは合法的に政権を手にしたのであり、その至って合法的で自由な制度の中で得た政権が、外堀を埋めるかのようにじわじわと己の決定がすべての国の動きを決めるようにしてしまったのだった。巧妙なすりかえとでも言えばよいのか、国民が気づかぬうちにそのようにしてしまったと言えばよいのか、なんとも判断しがたいが、国民は自由でいるつもりが、いつの間にか取り返しの付かないことになっていた、という点では、私たち現代日本とも無縁ではない。
 いや、著者がどうしてこの本を世に問う必要に迫られたのか、というのは、まさにその点にある。ドイツの歴史を辿り、経済的苦境の中でボランティアなどの方法で国民の動きをひとつにまとめていくことを明らかにした後、本書は最後に、決定的な主張を並べている。247頁以下で、日本国憲法との関係が説かれている。これによると、ヒトラーでさえしなかったようなことを、現代日本の与党はやろうとしている、というのである。
 カフカの作品や、ドイツの詩人の描いたドブネズミを象徴として、本書は、私たちのありさまと、ありたい姿とを示しつつ、幕を閉じる。どこか詩的なまとめ方ではあるが、この風景が指し示された後で、政治のニュースを聞くと、これまで見えてこなかった捉え方ができることだろう。本書の副題「戦後民主主義からファシズムへ」が重い言葉となって響いてくる。もちろん、これが単なる杞憂であるならば、それはそれでよいのだ。だが、政治の表向きの言葉の背後にあるものは、もしかすると政治家本人さえ意識していないほどに、人間を操る罠であるのかもしれない。著者は、実は本音というものがちゃんと見えてくる発言があるのだと指摘しているのだが、恐いのは、政治家自身が自分の本音というものを知らないか、認めないかするままに、政策だけを推し進めることである。歴史を学ぶということの意義が、こんなに大きなものであるかと改めて知る。歴史は、自分の信念や思惑を当てはめることではないのであって、政治もまた、同様なのである。




Takapan
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