本

『みどりのゆび』

ホンとの本

『みどりのゆび』
モーリス・ドリュオン
安東次男訳
岩波少年文庫101
\672
2002.10

 子どものための本は、小気味よい。なにせ、大人のすることが疑問だらけに描かれる。私が常識としていることも、子どもの目からすれば、なんでそうなの、と理屈に合わない批判を受けることになる。大人は、大人の都合のようように、何もかもをごまかして生きているということを、突きつけられるように感じるのだ。
 有名な本であり、岩波から出ていたのも30年を数える。執筆そのものは、半世紀前というふうになるようだ。
 架空の地で、物語は展開する。男の子が産まれた。チトと呼ばれた。このあたりにも、憎い演出がある。フランス語で、登場人物や地名などには、メッセージが込められているのだ。
 この子は、通常の教育になじまない。あまりにも自然に、素直に物事を理解するので、なあなあの約束事に応じられないのだ。ところがあるとき、その指に不思議な能力があることが分かる。それを解した庭師のおじさんが名脇役なのだが、とにかくチトはその才能をこっそり使って、人助けをする。指に触れたものから、植物があれよあれよという間に育ち、そこが緑豊かな地に変わってしまうのだ。
 チトは戦争の不思議さから、戦争を憎むようになっていく。その指の力を、戦争を止めさせることに、ついに成功するのだ。
 ネタばれを起こしてはいけない。本筋について語るのは諦めよう。
 読みながら、私はどんどん引き込まれていった。こんなに、お話にスッと入れることは、私の場合珍しい。時折はいる、社会のアイロニーのような、子ども本位の説明が面白く、私がもっと子ども心をもっていたなら、同じように書くことができるのになぁと羨ましくさえ感じた。
 もちろん、一種の寓話として、ひとつひとつの事柄が、現実の何かを投射していることも、それなりに味わえたから、これは何の意味だろうか、と感じながら読み進むこともできた。
 これでめでたしめでたし、と思ったとき、作者は、そんなことでは終わらない、と読者の上を行く。そうして、3日目にチトが木に登っていくとき、これはやはり良き時代のキリスト教の暗示を含んでいることが想像された。
 ただ、多分すでに多くの議論があるのだろうと思うが、最後の章はなくもがな、という気がしないでもない。説明を作者がすることなく、読者に任せてもよかったのではないか、ということだ。だが、哲学者の役割を演じる子馬が、最後に食べた草による演出など、ちょっといいものだな、とも思った。哲学者は、すべてを認識することはできなくても、本質を見通すだけの力は持ち合わせているのだ。
 ただ、私は思う。その哲学者の考えが、正しいという保証はどこにもない。つまり、最後に掲げられる言葉も、せいぜい哲学者が気づいた程度の事実でしかないのだ。それが真実であるという意味に受け止める必要もない。さらに謎は続くのだ。こう考えると、なくもがなの最終章が、生きてくる。
 チトは、私たち一人一人であるかもしれないのだ。
 これはもう、誰にでも、お勧めしたい本である。




Takapan
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