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『宗教座談』

ホンとの本

『宗教座談』
内村鑑三
岩波文庫
\540+
2014.4.

 1900年、40歳を迎えた内村鑑三は、平易な語り口調で、自分の体験を踏まえながら、キリスト教の基本的な部分についてまとまった話を記し、出版した。その気持がこのタイトル「座談」に現れている。教師でも牧師でもなければ神学者でもない自分が、理論ではなく、何者も否定することができない内村自身の体験として証しをするかのようである。
 その時代の言葉や情勢というものがあるので、すべてにわたり今と重ねて捉えることはできないが、概ね私たちは共感の思いを以てこの薄い本の話を聞くことができるといえる。それほどに、語り方も易しいし、体験に裏打ちされたものとして説得力がある。
 一項目、文庫にして十ページ余りまずは「教会」から入るが、これは内村自身のかなり大きな着眼点であるともいえる。周知のように、無教会主義として独自の信仰生活を続けて内村は、海外からも関心をもたれる強い生き方をしたわけだが、それというのも、当時の教会に対して、どこか偏見とも取れるような悪口を重ね、批判を続けることで、自らのエネルギーとしていたようにも見えるからだ。日本の教会の牧師が、立派な会場で食事会をすることにも矛先が向けられ、しかもかなりしつこく攻撃する。日本の教会は須らくなっちゃいない、と怒鳴り散らすようである。それが、いくら明治期であるとはいえ、40歳になるかならないかという辺りの人物の口から出る。驚きである。
 いきなりテンションが上がった内村は、教会に続いて、「真理」そして「聖書」へとテーマを替えつつ、淡々と証しのような論述が続く。「祈祷」「奇蹟」「霊魂」そして「復活」へとつながり、あくまてイエス・キリストに焦点を置きそれを見つめてい内村の姿がそこかしこに現れる。それはやがて「永生」について明らかにし、最後に「天国」というテーマで二回分の語りとなっている。
 内村鑑三についての著書の多い鈴木範久氏が、適切な注を入れている。明治期のキリスト教の置かれた情況や、英米の団体、またキリスト教史の用語などについて、短くも必要十分な解説をしてくれている。ある程度のことは知っていたが、まさにその当時の欧米の教会のあり方について、実に生き生きと分からせるような解説である。さしあたり私は、この注を参照することなしに、本編を読み進める方法をとった。引用はもちろん、諸団体についても、ある程度は知識があったからである。だが、途中ででも、その団体のことを把握していないと、内村が言っていることの意味や含みに気づくことはできないと感じ、時折注釈に目をやった。
 そう長い話しではない。本としては薄い。それが今や五百円を超える価格で売られている。消費税のレートがあるので、結構な値段である。だが、こうした歴史的な著作、文献としての価値のある本については、これくらいの値段で入手できるというのは、かなりうれしい企画である。これをハードカバーで手に入れようとしたら、何十倍かの値段を強いられることになる。だからこれは安い買い物だ。文章も敬体を用い、優しく響くし、使っている言葉自身も、たしかに分かりやすい。誰が読んでも意味が分かるように、誰に対してでも、心を開けばキリストが訪れるというチャンスのためには、薄い本は大歓迎だ。
 そう、ここには内村の生きた言葉が並んでいる。誰か他人が言ったこと、他人の説の受け売りなどでは断じていない。だから内村自身が、なんとかして福音を証ししようという姿勢が伝わってくる。ただ、そこには、時代性なのか個人的な理由なのか、今分かりにくい言葉も確かにある。もし今は別の意味で使う言葉である、などとなると、勘違いして現代の読者は読んで理解してしまうかもしれない。この本で目につくのは「実験」である。どうしても、科学の実験を思い浮かべてしまう。しかし、そんな意味でないことは、実際に文を読めば、多くの人は気がつく。残念ながら、こういう語についての注釈は入っていなかった。私は自分で、この語が別の意味であることから何かに言い換えようと考えたのだが、発想が貧困な私は、「実験」を「現実体験」程度に理解して、先を読むことにした。内村鑑三が聞いたら怒るかもしれないが、私自身はだいたいそれで読み進めた。
 現実の体験。これがなければ、信仰に立っているとは言えまい。他人の信仰の上に立つということは、できないのだ。だからどうしても、自分とイエスとの出会いが必要になる。その現実体験から、信仰の思いが芽生えることになる。
 実に、内村自身の信仰生活というのは、そういうことであった。
 巻末に、鈴木氏による解説がわりと長く載せてある。内村の実生活と置かれた情況などについても細かく触れられており、さすが内村鑑三の研究者だと思うが、そういう意味では、内村入門としてこの小さな本は、なかなかよいものではないだろうか。若干の言葉の意味のずれを感じつつも、当時これはどういう意味で理解されていたのだろう、と問題意識があれば、はっきり言葉にはできなくても、だいたいのところは学生たちにも伝えることが可能であろう。入門書として手に取るに適している。必ずしも内村の考えに同調できないところが出てくるだろうとは思うが、こうした薄い、しかし内容が豊富で著者の特徴がよく現れてくる本は、やはり重宝する。内村に同調せよ、というのではない。理解しよう、というものである。
 それはまた、現代で常識になっていることを、内村鑑三自身が知らないのだから、という理由もあることだろう。私たちはもっと先人たちの声に耳を傾けよう。今を生きる者同志は、同じ空気の中で喋ることになる。説明しなくても、阿吽の呼吸で伝わることになるとも言えるだろう。先人たちの歴史的遺産は、建物ばかりではない。精神的なものとして、こうした内村の特徴がよく表されている短い読み物は、なるほど確かに文庫に適したものなのであった。




Takapan
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