本

『ロビンソン・クルーソー(上)』

ホンとの本

『ロビンソン・クルーソー(上)』
デフォー
平井正穂訳
岩波文庫
\945
2012.11.

 元々1967年発行の文庫だが、2012年に改版されている。
 名作であり、誰もがその名を知る本である。が、そのことと、実際に読まれていることとはまた別である。歴史の中で文化項目として挙げられる文学作品など、実のところ殆ど読まれているわけではない。もはや明治の文豪ですら、ただの古典であり、自分が読書の対象とするような性格のものではないらしい。
 私もご多分に漏れずそうなのだが、たしかにこのように長い作品となると、覚悟をして読み始めなければならないものである。しばらくの間これに差し向かいになるための持続的な熱意のようなものが必要になる。これはかなりエネルギーを要するものである。しかしえてして、一度その世界に入ってしまえば、けっこう楽しめるものだ。名作と呼ばれるものには、それだけの魅力と価値がある。
 ガリバー旅行記のような、諷刺でもあるのかと思ったら、そうとまでは言えなさそうだ。むしろ、このガリバーのほうは、このロビンソン・クルーソーから刺激を受けたのではないかとさえ思われる。
 南海の孤島にひとり置かれたロビンソン。その一人語りで物語は展開する。父親の忠言に逆らい、家を飛び出す放蕩ぶりがその冒頭のかなりの部分である。若気の故に世界へ出るのが自分の唯一の道だと思い込み、海へ出るのだが、幾度の苦難をも越えてまたさらに欲を出したようなところへ、ついに孤島生活を強いられるようになってしまう。
 ロビンソン・クルーソーというと、何もかも自力で生活を組み立てたかのような印象があるが、そうではない。投げ出された船の備品を効果的に用い、またラム酒などは実に長きにわたって保っている。もちろん、現地の木材などを用いて居を構えることもするし、動物の肉を食むわけだが、原始時代の生活をゼロからスタートしたというイメージは払拭すべきである。
 問題は、そのようなサバイバルそのものにあるのではない。物語ではさほど強調されていないが、孤独であるということをしみじみと感じざるをえない状況がここにある。それはまるで、このロビンソンがそういう目に遭って気の毒に、というものではなく、そもそも私たち人間すべてが、そのような孤として生きているのではないかと思わせるかのようである。
 そう、ロビンソンは、神との対話を忘れない。それは、信仰深いが故にではない。キリスト教文化の中で生きていた彼は、それから如何に反抗しようとも、孤に陥ったとき、神の下にあるひとりの自分というものを意識せざるをえなかった。結局、備品の中にあった聖書の言葉が、独りで生きる自分を支えていくことに気づいていく。そうした中で、蛮族として描いている原住民が果たしてそれでよいのかどうかも分からないが、とにかく人食い人種との間の緊張関係と、難破してくる白人との区別が、キリスト教徒であるかどうかという辺りにあるというのも、当時のヨーロッパでは仕方がないにしろ、人としての在り方の基準であるとして描かれていることに、今の私たちは注目してしまうかもしれない。
 そう、これは実にキリスト教の書物なのである。多分に、実際に漂流したある人物の事件をヒントにこの物語が生まれたと言われているが、たとえモチーフがそれであったとしても、デフォーが描いていたのは、神の前に独り立たされている自分自身の姿とその生き方であったと思われる。上巻の318頁に「それ自体として当然われわれが必死になって避けようとする災がある、もしそれに陥ったがさいご、われわれの命取りにもなりかねまじき災だ。ところが、じつはそれがまさしくわれわれの救いの道であり、現在の苦難から抜けでる唯一の手段であることが、人生途上、いかにしばしば多いことか」ということを、「一つの正しい人生訓」であると述べられている。私は、ここに、この物語の集約点を見出したい。
 物語という性格上、中身は各自でお楽しみ戴きたいと思い、ここで紹介することは控えたい。孤独な人生というイメージもあるだろうが、お読み戴くと、案外ひとりぼっちのことばかり描かれているわけではないことにお気づきになることだろう。評判というのは、一般的なものなのであって、読者一人一人が、その本を自分なりに受け止めればよいのである。キリスト者として、このロビンソン以上に、孤独さを覚えることは、どうしても必要である。私たちは実に、ロビンソン以上に、孤独な人生を噛みしめているはずなのだ。そうでないと、この物語を適切に受け止めることはできそうにない。私はそう思う。
 なお、これには下巻があり、ロビンソンが再び船出をする話となっているが、こちらには、孤独な描写はあまりなく、孤島での活動を見てきた読者は、少し魅力を欠くと思われるかもしれない。しばしば宗教的・経済的な視点で尊重されるこの上巻におけるロビンソンのありさまは、確かに下巻である第二部には輝いているとは言えないものであろう。しかし、誰でも体験できないことについてこれだけの緻密な描写を試みたものとして、読者の好奇心を満たすだけのものは十分含んでおり、大いに人気を得たということも肯ける。父の許を離れる宗教的な寓話のようでもあるものだが、意外と生真面目な主人公の独白に、当時の人の生き方がやはりこのような真面目さを具えたものであったのだろうと思うと、今の私たちは独りで生きる強さもなく、またそうした信実を以て生きているのか、生きようとしているのか、問われているように思ったほうがよいのではないか、とも思う。
 だから、これを日本人一般の視点から、こてこてのキリスト教で自己中心の思想だ、などと一蹴するのは、適切だとは言えない。もちろん、それに耳を傾ける必要は、デフォーの支持者にはあるだろう。だが、非難する当人が、自分がどこにいるのか、何をしているのか、そこを問われているという意識なしでいるとしたら、デフォーの問いかけをはぐらかしているに過ぎないかもしれないのである。




Takapan
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