本

『世界の教科書で読む<宗教>』

ホンとの本

『世界の教科書で読む<宗教>』
藤原聖子
ちくまプリマー新書162
\780+
2011.7.

 本は、読者が自分の関心で読むものだ。しかし、筆者には筆者の言いたいことというものがある。この双方向が一致したとき、その本は真に読まれたことになるのだろう。あるいはまた、著者の方向性に読者が引かれていく、惹かれていく、というのもよいものだ。読者とて、そういう出会いを求めているのかもしれない。
 ただ、それが知らず知らずのうちに、ということもあれば、著者の側ではっきりと方向性を宣言して、ということもある。説明をしてくれるときには、この方向性が明示してあるというのは、基本的に助かるものだ。つまり、この本が何をテーマとして、何を目指しているか、そのためにどういう手段を用いるか、ということが初めに書かれてあれは、読者は適切な地図ないし道案内をしてもらえることになる。地図なしで旅に出るのは不安だからだ。
 この小さな新書は、その点で、たいへん親切である。「はじめに」にきちんと掲げてある。それは、宗教について学ぶ理由ということである。宗教対立は、宗教が平和をもたらすというよりもむしろ争いの原因になっているのではないか、という、ありがちな危惧が、読者一般の問題意識の中にあるのではないか、というあたりをスタートとしている。しかし、著者は、宗教を重んじる人のことをそれは理解していない考え方だろうという予想をつけている。そのために、ユダヤ教のラビの印象的な言葉をまず紹介している。人類最大の犠牲をもたらした戦争は、宗教とは関係のない理由ではなかったか、宗教を離れたところで戦争は深刻化したのだ、というのだ。
 自分に宗教は関係がない、関心がない、という人にこそ、宗教というベースが形成している世界のあり方を知ってほしい、とこの本の著者は言う。それは「異文化」であってもいい。とにかく世界はこのようにして動いているという事実を無視することはできないのだ、というわけである。
 そのとき、公教育が宗教をどのように扱っているか、これがこの本のテーマである。もしや、宗教が対立を呼んでいるとすれば、子どもたちに、宗教の絶対性を強調する刷り込みを公教育が行っているのではないか、と日本人が疑いがちな点を、いわば客観的に明らかにしようというのである。宗教というのは、凝り過ぎて熱中し、たとえばカルト的な言行に向かうのではないか、というような考えを、無宗教でいいというような無関心派の人々は思いがちなのである。いや、それさえも偏見かもしれないが、日本の教育では宗教という問題を、見事に避けているように見える以上、実際そのように考える人が多々あることは、私にも分かる。
 とにかくここでは、各国の宗教教育の事情を、教科書という客観的な物を通じて検証しようというのである。教科書がどうであれ、それはあくまで建前に過ぎず、実際は違うように教えられている、ということがあるかもしれない。著者もその可能性は踏まえている。しかし、使われている教科書というのは、たしかに実際に子どもたちの前に広げられるものなのである。さしあたりはそれを取り上げるのが、公正な比較検討というものであろう。
 とくに、日本における、その宗教についての記述と、現地での扱いの違いというのは興味深い。つまり、日本人だけが偏った情報でその宗教について偏見を育んでいる、という可能性は、否定できないのである。
 予め本書は、自由の不安が宗教を必要としているというような指摘を行い、2001年のテロに見る宗教観の対立のように見られもする現象について、それが純粋に宗教によるものではないというような点を説明しようとしている。そして異文化を理解するということの中に、平和がもたらされる糸口があると考えていることを示す。
 果たして、宗教は寛容とは別なのか。一神教が非寛容的だ、などという、したり顔の日本の評論家や一般人の言葉が、的を射ているのか、それとも的外れであるのか、こういった点をこの本は、見事に指摘することになる。
 英語学習を政府民間ともに薦めている。国際理解という美しい目的を出して、大学も学生を集めるために国際なんとかという学科名に次々と変更を行っていく有り様である。だが、英語で買い物をするのが国際理解ではない。この「宗教」という理解を、この本の主張する内容に添って理解していくようなことを事欠いて、国際理解などありえないものだろう。
 他人への関心と尊重の態度、それが簡単ではないにしろ、必要なことだ、と「あとがき」では述べられている。そして「教育はそれを決してあきらめない」ことを、各国の教科書は、宗教という項目を通じて訴えているのだ、というように結んでいる。
 外国を見下しがちな論客がこの国にはたくさんいる。はたしてその人々が、「宗教」についてどのような理解をしているのか。残念ながら、しばしは彼らは、日本や東洋の宗教は平和で寛容だが、キリスト教やイスラム教は違う、と叫んでいる。そうした人々は、目を開いてこのような良書に触れてほしいと願う。




Takapan
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