本

『ノストラダムスの生涯』

ホンとの本

『ノストラダムスの生涯』
竹下節子
朝日新聞社
\1890
1998.2

 例の1997年7の月の騒ぎは、何だったのか。
 過ぎてしまえば皆懐かしい、ではないが、あのころには、どこか不安な空気が社会に確かにあった。「そんなこと信じてなどいないよ」と誰もが口にした。しかし、時代の空気は重かった。本気で世界の終わりだなどと考えていたわけではない。だが、「もしかすると……」という虞を、時代は捨て去ることはできていなかった。
 ノストラダムスの大予言というのは、30年くらいだろうか、もっとだっただろうか、昔にも流行った。センセーショナルにマスコミから叫ばれて、日本中にその名が響き渡った。
 世界が終わるという、オカルトの図式が一気に広まったのだ。それは将来のことであったが、いよいよその時が現実に近づいてきた。
 著者は、私が最近別の本やサイトで関心をもった、フランス在住の作家、あるいは学者、どう言えば最も適切であるのか私は知らないが、とにかくカトリック思想について大変深く広い知識をお持ちの方である。その著者が、昨世紀末にこんな本を著していたのだと知って、読みたくなったというのが実情である。
 この著者らしい。そもそもノストラダムスという人物はどのような人物であるのか、徹底的に調査して紹介する。その生い立ちやエピソードも、まるで自身が16世紀に生きて出会っていたかのように、ノストラダムスの生涯を説明してくれる。フランスに生活している著者であるがゆえに、フランスの地理や習慣なども取り入れながら、たんなる古い文献を説明しているようには思われず、生き生きとしたガイドとなっている。
 いや、それよりも前に、まず当時の時代背景から、きっちり読者の心に印象を落としていくのだ。この徹底した姿勢は、頼もしいし、私は好きだ。
 そもそも予言というのは、当時どのように見られていたのか、そういう素朴な、しかしえてして最も解釈上重要な点にも確実に光を当てていく。占星術の意味も含め、ノストラダムス当時の社会常識の中で、予言がどのように扱われていたのか、中世から近代に続こうとしている時代の空気を確実に読みとりながら、語ってくれる。
 そして、問題の予言書のいくらかの節を具体的に取り上げる。曖昧にされているという意味も具体的に示されるし、元の語順も考慮しながら、何が言いたかったのか、探っていく。
 いやはや、どうして十年前に、私はこの本と出会っていなかったのだろう。明晰判明なデカルトの精神を受け継いでいるのかどうか知らないが、歴史に対するはっきりとした態度と眼差しを保った、わくわくするような知的興奮を覚える本である。
 1999年が過去になった今、もう今度はマスコミはノストラダムスになど見向きもしない。浅はかである。ここには、人間観察の集約された予言という行為が、まるでニネベに悔い改めを要求したヨナのように、方向転換や希望といった動機によって態度を改めるようにもちかけて、未来をつくっていくものとして用いられている。
 そんなふうに考えると、これはある意味では、今現代こそ、読まれなければならず、考えなければならない状態にあるのではないか、という気がしてきた。
 時に歴史の世界にどっぷりと浸かり、時に天上の理論を神からうかがいながらそれを人間に伝えるモーセのように振る舞い、著者は博学をただの理論の道具にはせずに、理論に検証にそして審美観のために利用する。
 1999年が過ぎた今、落ち着いて読んでみるのもよいだろう。いや、今だからこそ、読まれなければならないのではないか、と思う。




Takapan
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