本

『マルティン・ルター』

ホンとの本

『マルティン・ルター』
徳善義和
岩波新書1372
\735
2012.6.

 新刊情報を知ってから、発行を待ち望んでいた。福岡は、発売日には店頭に並ばないことが多い。これも、三日間、毎日通りがかりの書店に通うことになった。そう大きな店ではなかったので、店員から見れば、毎日来ては出て行く変な客であっただろう。
 ルター研究にかけて日本随一の人であるかもしれない。ルターの生涯を紹介するというような帯の文字だが、ただの紹介なら、類書はいくらもある。ここに新書たる所以というぺきか、一つの切り口でルターを切りひらき、その見方を貫いていくということになった。
 副題は「ことばに生きた改革者」である。だからテーマは「ことば」になるだろうか。聖書中心で信仰義認だとか万人祭司だとか、宗教改革を象徴するような用語はいくつかあるが、この本はさらに根源的に、「ことば」という窓を用意して、そこから宗教改革とルターとを見つめようと試みている。それが最後までブレないから、読んでいてもたいそう気持ちがよい。
 実際、文章や展開が非常に平易である。驚くほどに優しくスムーズに読むことができる。もちろんそれは、信仰者のはしくれとして、背景やその内容が理解しやすいということもあるかもしれない。だが、たんに歴史で聞いただけだ、という人が手にとっても、きっとさらさらと読んで理解できるのではないかと感じる。誰にも伝わるように簡単に述べるというのは、実に難しいものだ。それをいとも簡単にやってのけるあたり、流石と言わざるをえない。
 ことばに生きたルター。その生い立ちからそうであった。そしてそれが素直な形で、むしろたんなる討議の要求であったという、あの九十五箇条の提題として現れたが、これが危険なものとして世間に響き、ルターの運命を大きく変える。そのときの政治的状況についてこの本は、必要最小限だけを的確に説明する。えてして、やたら詳しく長々とこの歴史を語る本が多いものだ。しかし、「ことば」に当たった光を効果的にするためだけに、それを説明するのだから、新書という形態でひとつの筋をつけることを使命とするならば、まさにその通りのことができたと言えるだろう。
 ルターは、神の義を考えるにあたり、ある一点から突破される思索に魅了された。それが神の恵みを語ることであると確信した。自分で神を讃え、歌い、讃美することから疎外されていた、多くの民衆。識字率の問題で、せっかく活版印刷ができて聖書もいくらかずす印刷されていたにも拘わらず、民衆はかつてのカトリックの礼拝では、ただありがたがる程度のことしかできなかった。
 しかもルターは、真剣に徹底的に聖書の福音というものを目の前にした。贖宥状を手にオレはこれがあるから大丈夫、と高笑いをする酔っぱらいに出会ったルターは、何か決定的に違うと思い、信念を貫こうとしたのだと描いてある。修道士という立場で、民衆と違い、直に聖書に触れそれに浸かる機会に恵まれたルターは、聖書にある「ことば」が、民衆に示されている信仰とはずいぶん違うものになってしまっていることが納得できなかった。なんとか人々に聖書にあることを伝えねば。しかし、礼拝に出る民衆も、訳の分からないラテン語を唱えている儀式を見て、ありがたや、と拝むだけ。文字が読めない民衆は、教会に来れば地獄に堕ちないで済む、という程度の話で教会に結びついている。いったいこれでよいかどうか、ルターは落ち着かなかった。
 聖書の「ことば」が正しく伝えられなければならない。ルターはそれを中心に据える。パウロ以来、新たに福音を人々に伝えるような営みとなる。その聖書のことばがどうやって広まっていったのか、その歴史と背景とを、この本は説くのに吝かではない。語る説教はドイツ語へと流れていく。会衆で讃美できる礼拝にしていく。聖書が一般の人々に分かる言葉で語られるという、画期的な時代をルターが築いていたことになる。当人はどこまでそれが新しく重要であるか、知るすべもなかっただろうが、ルターなりの一つの信念で突き進む生き方も十分伝わってくるし、その思想がどういうものであるか、また民衆にことばで語るという点へのこだわりなど、人間ルターが立体的に語られ、しかも非常に読みやすい。
 しかし、小さな新書でできることには限度がある。どうせ入門書程度のものでしかない、と軽視されるかもしれない。あまりにも読みやすいので、なおさらそう思われがちだとも懸念される。しかし、私はそうは思わなかった。あまり強調されない点を、現代の私たちの視点でしっかりと見つめている部分があり、心に残った。特に、ナチス・ドイツとの関係である。
 20世紀、第一次大戦に傷ついたドイツの中から民衆の心をつかんで一気にのしあがったグループが、ルターの著作の一部だけを抜き出したとき、ユダヤ人を排斥する理由として掲げられ得たのだ。ルターはナチスの思想的バックボーンであるかのように演出された。ルターはドイツをナチスの旗の下に集め結束させる道具として使われたのである。それは、ルターの作った讃美歌もまたそうだった。ナチスに人々を結びつけるためのテーマソングだったというのである。
 ルターが悪いというつもりではない。人間はどこまでも、どんなことでもできるという一つの例になりうるだろう。そして、現代の私たちが現代においてそういうことをしていないか、またしている者を止めるように働くのかどうか、そんなことが問われているように感じる。小さな新書が、歴史のルターを描くと共に、現代の私たち自身に問題を突きつけてくる。
 キリスト教が巷までも支配する構図は、ルターの改革によって崩れた。それは改革というよりは、「再形成化」と見たほうがよい、と著者は言う。新たな世界が生まれるのではなく、リフォームするのだ。キリスト教は、決して一度滅んだというようなことではない。ルターが「ことば」として聖書を捉え、そこから神の声を聞くことにこだわったが故に、これまで生きてきたその信仰の歴史が、いわば原点にリフォームされようとしていたのだ。
 だとすれば、私たちの今の時代にも、そのリフォームは必要であろう。旧態依然としたものだけが正しいと見るのは危険である。たとえば、日本はこうである、と定式化しようとする勢力が必ずあるのだが、日本の伝統は彼らの崇めるある一定の時期の政治や思想のシステムを時に例外として退け、元来はどうであったのか、という疑問に彼らが答えようとしているわけではないことからも分かるように、日本は伝統的にこうだった、というものが真実であるという保証はどこにもない。
 ことばを重んじなければならない。ことばが軽くなっていく現代である。ルターは、カトリックの教会ラテン語では民衆に福音は伝わらないと考えたが、今もまた、平易であると教会側が思いこんでいるようなことばが、実のところ一般の人々に伝わっていないのだ、ということで、ルターの置かれた状況に似ている部分があるとも言えそうに思う。古い讃美歌の歌詞は、もはやルターの時期のラテン語に近いものではないだろうか。
 ルターを知るためにも、分かりやすくテーマを絞った一冊の良書であると感じたが、それ以上に、今の私たちの「ことば」というものについて、見つめる機会となったことがまたうれしかった。著者が、今「ことばの回復」が必要なのだと叫んでいることと、それはまた重なっていくに違いない。
 政治的に、精神的に、知的に、霊的に、いま「ことば」を空しくしないための営みまたは闘いが、キリスト者には求められているのではないだろうか、とさえ思う。




Takapan
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