本

『まど・みちお 詩の本』

ホンとの本

『まど・みちお 詩の本』
伊藤英治編
理論社
\1050
2010.3.

 1909年2月のお生まれ。100歳を超えた詩人。「ぞうさん」の歌詞はあまりにも有名である。童謡の作詞者としてたくさんの愛される歌を世に送っている。「おかあさんといっしょ」の番組で歌われない週はないほど、子どもたちに愛される、子どもたちに相応しい言葉の歌が、この人を通じて生まれている。たいへんな仕事だ。
 その魅力の一つは、言葉のやさしさ。ほとんどがひらがなである。漢字は、小学一年生で読める程度のものが多い。小さな子どもも読んで口にできる。いや、字が読めなくても、そらんじることができる言葉だと言ってよいだろう。
 同じような魅力かもしれないが、その言葉のリズムのよさ。もちろん歌詞として書かれたら、リズムや音の響きについて、心地良いものがあって然るべきだが、たとえ曲がついていないものであっても、口にしてしっくりとなじむリズムというものがある。それていて、金子みすゞのように七五調に徹するというわけでもなく、自由詩でありながら定型詩の安定性を感じさせる不思議さがある。
 さらに、よく考えてみれば不可解な内容と、意外な展開や結びつきというものの存在。一ねんせいになったらともだちがたくさんできるかな、と不安な気持ち。それが、突然富士山の上でおにぎりを食べることや、日本中を巡ることになる。しかも、「どっしん」などと。こういう発想は、私の中のどこを探しても出てこない。ぞうさんにしても、鼻の長さと母さんが好きというのは、簡単そうで、私の中から出て来るとは思えない。しかも、それがコンプレックスや異端の排除の中から母さんと同じだという慰めだとしたら、こんな優しい「寄り添い」というものが、短い言葉で尽くせるというのは天才的だとしか言いようがない。
 当たり前だと思っている「めだまやき」という言葉を「いたい」と感じるというのも、言われてみればなるほどなのだが、そこへのこだわりが実に素直だと思えてくるのも不思議だ。ルナールの『博物誌』ばりに、ケムシについて「さんぱつはきらい」と、あるいはノミについて「あらわれる/ゆくえふめいになるために」と言い切るというのも、やはりこの人は別の視点と視力をもっているということを明らかにする。「じぶんで じぶんを/けしたのか/いまさっきまで/あったのに」とは、まさにけしゴム。
 これだけ易しい言葉で、短い言葉で綴られているだけなのに、そうとうに考え抜かれた言葉であるということは、詩をつくる人ならば誰でも分かる。それでいて、ストンと呑み込まれてくる。ありふれた言葉に、新たないのちを吹き込むことが詩人の役目だというふうに考える人もいるが、だとすればこの本は、まさに新たないのちにあふれた一冊である。
 なんだか、所狭しとぎゅうぎゅうに続けて印刷されているのがもったいないほどだ。できれば一枚の色紙に、やなせたかしさんの絵を描き、そこに手書きで、しかも整然と揃った書き方で、まど・みちおさんの詩をひとつだけ書かれてある、というような風景がいい。
 たしかなこと。一冊だけ詩の本を手に歩きたいというときに、この本を手にしていたら、間違いないだろう。そんな本である。どこから開いても、どこを読んでも、楽しい。心の歯磨きをするような心地がする。




Takapan
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