本

『マグダラのマリアによる福音書』

ホンとの本

『マグダラのマリアによる福音書』
カレン・L・キング
山形孝夫・新免貢訳
河出書房新社
\2520
2006.12.

 イエスと最高の女性使徒。
 この美しいサブタイトルと共に、原題をほぼ忠実に守って出版されている。そのままのタイトルが最善であるだろうから。
 一時各報道機関をもちょっと騒がせた。ユダの福音書なども話題になったが、聖書のスキャンダルを暴くなどといった映画が登場したからだ。当然、欧米ではそれに対する論争が起こり、社会現象となる。それを日本人は、どこかおもしろがるという構図であったようにすら感じる。
 日本国内で、天皇制が議論され、とくにそこにスキャンダルめいたものが大きく取り上げられたとしたらどうなるだろうか。そんな騒ぎのようでもある。また、それを欧米がどう見て理解するかというと、よく分からないというか、他人事であるとして終わりそうな気がする。
 だから、ちょっとした対岸の火事のように、興味はもつが自分には関係がない、というふうに、この福音書の話も酒の肴になっては消えていった。
 だが、聖書をいのちとして見ていく者からすれば、そしてそういう文化を基盤にしている欧米の学者にとっては、大問題である。いや、そのセンセーショナルな取り上げ方がどうとかいうよりも、その文献そのものが問題なのである。
 マグダラのマリアの福音書は、その存在は間接的に知られていたにせよ、一部とはいえ原文が明らかになったのは、ここ百年程度の話である。それはイエスの語録として読まれたために、聖書理解のための重要な史料となったのである。
 もとより、それが信仰のためにどう役立つかという点については、殆ど考えられていない。一般的な理解としては、それはグノーシス主義の文書である、として片づけられていた。そのような言い回しがある、と言えるのは詳しく調べた研究者の言うことであるが、まったく原文を、その訳においても見たことがないような聖書学者たちが、一斉にグノーシスだと伝えていく。まるで、インターネットでのウィキペディアの利用のような感じだ。
 この本は、このマグダラのマリアによる福音書の研究において有名な人である。そして、ありきたりの解釈をするものではない。この書が、事実上かなり古くから存在していることを丁寧に伝え、その当時グノーシス主義などという言葉や捉え方がなかった、という、考えてみれば極めて当たり前のことを指摘することなども含めて、この福音書の意義を正当に理解しようとする。
 そこにある、マリアとペトロとの激しい対立、男性の弟子のあり方に異議をとなえるかのような、女性的な視点、そして単なる思い入れでない証拠として、現今の聖書の中の文書との近い類似性も挙げていく。パウロ書簡や四福音書の中に、並行しているのではないかと思わせるほどの近さを感じさせることもあるのだ。そういうことを具に挙げていくことで、説得力を増していく。また、一般書の形態をとっておりながらも、実に緻密な註釈が付き、根拠を挙げている。本気で調べて本気で論じている熱意が伝わってくる。
 とくに、これまた一般的に牧師が又聞きで採用して安易にそう伝聞している、マグダラのマリアは元娼婦であった、とか、香油で髪を拭った罪深い女だ、とか、甚だしくは、マルタの妹のことだ、とか、そんなふうに俗説に、何の根拠もないことを著者は示す。とくに罪深い女であろうという、通常の思いこみが、いかに危険であり、またそれが男性信徒の心理から想像されて好都合に利用されてきたアイディアであるはずだ、と正面切って述べるところなど、私は男性だが、読んでいて爽快な気持ちがする。全く、女性の地位を低く抑えた表現は、パウロにも顕著であるが、キリスト教の歴史がずっとそれに支配されてきた男性の論理の下にあると言う。そうなれば、このマグダラのマリアによる福音書は、むしろマリアがペトロに反論し優位性を保っているようなことなどからして、当初のキリストに属する者のグループの中で女性が重要な役割を占めていたであろう様子を、逆に正しく伝えていることにならないか、というような視点からも著者は捉えている。
 現今のキリスト教信仰からすれば、たしかにこの史料はうまく合わないところがある。しかし、まだ聖書が編集されていなかった時代、どのようにイエスの言葉が、あるいは使徒たちが、どのように受け取られ、理解されていたかということについて、空白の時期の橋渡しをちゃんとやってくれるものであるということは、誰もが否定できないことだろう。そのためには、これを単にグノーシス主義の思想だ、と一言で片づけてよいとは思えない。それこそ、女性の視点で、どうしてこの書が記されたのか、どうしてそのような内容であるのか、様々に検討する意味があるというものである。
 部分的にしか見つかっていない、この原文の日本語訳もこの本に掲載されている。そういうところだけを読むのも、面白いかもしれない。もし関心がさらに広がれば、トマスの福音書や、ペテロとかパウロなどの福音書といった古い文献にも触れてみるとよい。これらはその残された量が多く、まとまった本としてすら存在している。イエスと新約聖書とをつなぐ、何らかの糸になることは間違いない。いや、糸どころから、絆であるかもしれない、などと私は想像するのだが。




Takapan
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