本

『音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治』

ホンとの本

『音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治』
黒岩比佐子
角川文庫
\859
2009.5.

 すでに10年前に単行本となって出ていたのが、文庫本となり手に入れやすくなった。
 著者はノンフィクションライターとしてこの本が原点にあたるという。
 福岡県出身で、基本的に福岡県を地盤とし続けた人。
 ろう者だからという理由で興味を抱かれるとは限らない。作品自体、人の心をひきこむものがある。何か、私たちがぼんやり世間を見ていてもあまりにも蔑ろにされる一瞬を、まるでスローモーションですべてを捉えることができる目をもった人が、逃さず捉えた、そんな写真が居並ぶのである。
 このことを、このライターは、一つの観点から分析している。それは、たとえば視覚障害者が、聴覚に対して研ぎ澄まされた感覚をもつことができるようになる場合があるのと同様に、ろう者は、手話というものも視覚的言語であるのだが、視覚において、つまり写真という分野において、聴者とは違う優れた感覚をもつことがあるのではないか、というのである。もちろん、カメラという道具によるものであるから、誰でもろう者がそうなるというわけではない。ただ、素晴らしい感覚をもち、それを発揮するチャンスというものがある可能性もいろいろあるかもしれないと思えてくる。
 それにしても、ルポライターとは限りない労力を必要とするものだ。なにぶん自分のことではない。当事者へのコンタクトからその過去をも裏づける資料の存在を確認してそれを立証しに走ることもあるだろう。時に海外の人や舞台での確認というものも必要になる。この井上氏の場合は、アルルの写真フェスティバルに招待されつつ直前に亡くなるということもあり、その焦点へ叙述を集めていくことになるのだが、現地とのやりとりなど、様々な背景を、よくぞここまで調べ上げたと感動する。
 そもそも、ろう者ということについて、あるいはろう文化についても、さして理解があったわけではなかったというところから出発している。写真について造詣が深いとも思えない。そんなライターが、ハンディキャップや福祉、そして芸術というナイーブな問題について、これだけ調べ上げたのである。参考にした資料だけでもものすごい量であろう。それがこの程度と言っては失礼だが、わずかな文庫本に収まっているというのは、とんでもなく不公平なことであるように思われてならない。
 ろう者としてのコミュニケーションの不都合な部分も理解し、またろう者であるからこそのコミュニケーションに優れた部分も理解する。たとえば外国に行っても、日本国内でコミュニケートするのとさして違いがない故に、どんどん人と対話ができるようになるということだが、そうしたデリケートな部分を、著者は実に的確に捉えているように見える。そのことがまた、このレポートたる一冊の本を、価値あるものにしている。
 多くの人を通じて、この一人の人物を描く。その当人から取材できた時間はごく限られていたのに、そのチャンスを最大限に活かしつつ、記述を深めている。
 著者も、この本を皮切りに本格的にさまざまなノンフィクションを世に出していくようになる。そういうわけであるからだろうか。あまりにも人物関係や背景などを正確に描こうとしているせいか、ちょっとやりとりやその意義が理解しづらいかなと思われる記述表現がないわけではなかったが、それも私がいい加減に読んでいるからかもしれない。本全体の価値を下げるようなことは、ないはずである。
 写真は、沖縄と福岡のものが殆どである。どちらも私にとり縁が深い。だからよけいに、その写真を通じてこの本を親しく感じたのかもしれない。ろう者ということもあるし。本文中にもあるが、口話教育の与えた影響は、実に深い傷となっている。福祉とは何であったのか、そして聴者としてもどう捉えて実践していけばよいのか、考えさせる問いかけもあった。もっと多く宣伝されて、たくさんの人に読まれてほしいものである。




Takapan
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