本

『カント 信じるための哲学』

ホンとの本

『カント 信じるための哲学』
石川輝吉
NHKBOOKS1137
\1018
2009.6

 かつては、定式化したカント研究書しか売っていなかった。それしか研究方向がないかのようであった。思い切ったカント解釈は時折現れたが、さして注目もされなかった。それはもしかすると、今もそうであるのかもしれない。すっかり学会方面から遠ざかってしまったので、カント学会の位置も方向性も、分からないのだ。
 だが、考えてみれば、それではいけない。私もだが、学会もである。哲学研究が、一般人の及び知らぬところで謎めいた文献研究に眉をひそめているだけなど、いったい何のための哲学ぞ、ということになる。ようやく、いろいろなカント入門も現れ始めた時代なのだ。カントを用いて、私たちが哲学することができるように配慮していくことは、切に必要ではないか。
 独断のまどろみから醒めるというカントの驚きを、人々が普遍的に体験するというのは、カント本人も望んでいることのような気がする。
 この本も、ユニークである。自分に引きつけて解釈しているところが、若いと言えば若いのだが、少なくともそれを時代の要請として位置づけたところ、さらに哲学史の大きな流れの中でも見失わず舵取りをしているという意味で、素晴らしい出来映えではないだろうか。
 同じことをくどくどと繰り返す点が、気にならないわけではない。恐らく元の論文と、それから膨らまれて別の展開を構想して形にしていった段階で、同様の説明を別々の箇所で行う作業が伴ったのではないかと推測するが、ともかくご丁寧に、同じことを繰り返す。だが、これは一般人向けの哲学書である。しかも、カントを知らない人にも一定のカント理解をしてもらわなければならない。必然、どうしても理解してほしいことについては、懇切丁寧強調必至ということになるのであろう。また、繰り返されることによって、その点を押さえて読んで行かなければならないことが、誰の目にも明らかになる。
 独断と懐疑との狭間で、カントは節度ある認識の経験範囲を限界づける。理論理性の限界の内で、学的真理が成立していることを、一歩も譲ることがない。こうしたカントの認識論を、著者は、揺れることなく、アンチノミーが出発点であると断ずる。カントは、純粋理性の二律背反を動機として、認識哲学を構えたというのだ。それはそうだろう。そして実践理性において、その認識の外にあるとされたもの、いわば物自体について、学的な判断ではないけれども、理性として当然無条件にそれに従うであろうところの、道徳法則によって、基礎づけられていくという過程を通る。
 その上、美的判断から判断力批判を築いていくとき、カントはその美についても善の原理を優位に立てることから離れなかった、と著者は言う。そのために、幾多の後の哲学者たちと衝突することになったし、カントが物自体として触れぬままに残しておいたものを、再び独断論の世界で解明したとして説明する試みの中で生き返らせてしまったというふうなことも言う。
 しかし、できるかぎり生活世界の言葉で捉えてみようとする若い著者の試みは、最後まで続く。物自体として認識を諦めなければならなかった世界の根本問題も、理性は意味ある問いとして問い続けるであろうし、追い求め続けるはずだというのだ。人と人との間に成り立つ関係や言葉による交わりの中で、カントがたんに常に道徳法則でしかないと言った原理においてだと制限されることなく、現代人は、人それぞれという立場全盛のこの時代の中で、普遍的なものについての判断を求め、また下していこうとする、今の時代における純粋理性批判のもたらす恩恵を、哲学の問いの中で育てていくべきなのだ、とまるで訴えたいかのようである。
 いやはや、カント的に、難解な文を並べてしまったかもしれない。私自身も分かっていないのかもしれない。主観がそれぞれでありながらも普遍的なものを求められるというカントの動機は、その普遍的なものということを物自体には設定せず、客観との一致の中に真理を見る眼差しを、極めて現代的に転回してしまった巨人カントである。そのカントの哲学が、息を吹き返すとすれば、著者のこのような意識において、意義をもつことによってであるのかもしれない。
 もちろん、私はこの「信じる」というタイトルに惹かれた。直感的に、読む前に、この「信じる」ということの予想ができた。私もなんとなくではあるが、そのようにカントを捉えていたからであろう。
 信じるというのは、神を信じることに頂点を極めるが、私たちはごく日常的に「信」を行っている。サブタイトルにある「「わたし」から「世界」を考える」ということの意味も、信じること、それは必ずしも信仰とは限らず、信頼や忠信、あるいはただの「信」としか言いようのないものにおいて、受け取ることができるように思っていた。そしてたぶんそうであるのだろうと考える。
 そうした背景と共に、私もうれしくこの本を読ませて戴いた。哲学と信とのつながりが、ここに一つ確定されたのである。その「信」は、必ずしも宗教でなくてよい。
 このように、この本はかなり読みやすい配慮があるので、考えつつ、悩みつつ、答えを急がないで、読んでいけばよいと思う。世界観が、変わってくるかもしれない。本を読む前に捉えていた自分というものと、読了後に捉えた自分というものとが、同一人物だとは思えないほどに変化しているかもしれない、とさえ思う。




Takapan
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