本

『日本人の宗教意識とキリスト教』

ホンとの本

『日本人の宗教意識とキリスト教』
佐々木勝彦
教文館
\1900+
2014.8.

 タイトルは、キリスト教世界で時折問題になる事柄である。どうしてこの150年あまりの中で、キリスト教が根付かないのか。もちろん戦国時代からの伝統もあるが、鎖国政策によって途切れる憂き目に遭い、単純に宣教できないなどというふうには言えない事情がある。しかし明治以降、制限もあったとはいえ、信仰の自由はそれなりに保証され、まして太平洋戦争後は、完全に自由に信仰がもてるようになったと言ってよい社会事情である。だのに、戦後の一時的なブームは別として、信徒が増えていくという気配がない。いや、高齢化を抱え、信徒は減少の一途を辿る。
 そのために、日本人の思想の中に、キリスト教を阻むものがあるのではないか、と囁かれたのである。これは現代に限ったことではない。芥川龍之介は、すでに日本を覆う何かある空気を文学者としては明確に受けとめていた。論者が、あるときにはそれはこういうわけだ、あるときにはまたそれは日本人の云々と論じはしたが、決定的な理由が見当たることはなかった。まとまりのないまま、今なお、「なんでだろう」のもやもやとした思いとともに、キリスト教世界は日本の中で呆然と佇んでいる。
 ある場合には、自分たちの罪のせいだ、などとして、至らない教会自身を責めもした。しかし、単純にそれだけではなかった。かといって、楽観していてよいという人の声は、必ずしも広く支持されるものとはならなかった。
 逆に福音宣教が広まった韓国からは、日本人の救いのために祈りが篤く献げられ、また、実際的な援助も多々行われた。しかし、いくらかの関心を引くことはあっても、日本人が教会に押し寄せるようなリバイバルが起こったと言う機会は与えられなかった。
 そうしたわけで、宣教の失敗さえも語られた。単に自分を責めたとしても治まらないものがあると見られたのだ。もちろん、気づいていない、日本の教会のまずさもある。日本人クリスチャンの性向として、何か決定的によろしくないケースがあることも考えられる。しかし、それが分かったからといって、この日本の精神風土は、福音化されるようなふうにも見えないのが実情なのである。
 前置きが長くなったが、こうした背景により、日本人の宗教意識をひとつ整理してみよう、というのがこの本の意図である。もしかすると著者により新しい視点が与えられ、提案があるのか、とも期待したが、それは期待すべきことではなかった。
 この本は、もしかすると「和魂洋才」という言葉をひとつのキーワードとしていながらも、日本人が、とくに日本人クリスチャンがこれまで分析してきた、福音を阻む日本の精神風土についての様々な本やレポートをまとめたものである。単にあらすじだけではなく、一定の評価のある本を最初から丁寧に辿り、その主張するところをダイジェストに並べている、と言ったほうがよいだろうか。
 テーマは、無宗教・選択基準・無意識・日本的なキリスト教の姿・日本の神学という五つの章に分けられて整理されているが、どれも、何らかのある既製の本の内容を紹介しているものである。
 その意味で、新たなものを提示するとか、著者が身近な経験を踏まえて実態を示しあるいは考察するというものをこの本に期待することはできなかった。そのため、これは一つの資料として有用である、と言わざるをえない。著者の目に触れたものしか取り上げられていない。だから、日本の神学や分析を網羅しているわけではない。しかし、私もそのうちのいくつかは知っているし読んだことがあるが、こうした問題を考えていく上で必要な文献であることは間違いないゆえに、本書がひとつあれば、さしあたり何かについて考えていくときに、何冊かの本が述べていることをひとまとめにして調べることができる、便利なものである、と言うことができよう。
 そうは言っても、時折著者の見識から意見が現れてもくるわけで、もし本書を用いて何かの意見を言おうとするときには、注意が必要である。ただの資料集ではないので、注意をしたい。また、著者が触れていない、つまり著者の見落としている重要な文献や捉え方がきっとあるのも確かで、本書がすべてであるというふうな見方をすることもできない。だから、私たちが何か考えるときの、ひとつのきっかけにする、というような使用が望ましい。こうした使い方を注意した上であれば、さしあたり安価で役立つもの、踏まえておきたいもののカタログのようにして利用可能なものであると言うことができるだろう。このような本もまた、非常に意義ある仕事となるのである。




Takapan
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