本

『イエスのまなざし』

ホンとの本

『イエスのまなざし』
島しづ子
燦葉出版社
\1800+
2001.9.

 タイトルは象徴的であると思うのだが、もしかすると、別の題でもよかったのかもしれないと思う。たしかに、それを匂わせる説教があるのだが、直接扱われているところはそうあるわけではない。ただ、著者を神が確かに見守っているという確信が揺らぐことがないので、やはり全体をこのまなざしが覆っているのかもしれない、とも思う。
 サブタイトルは「福音は地の果てまで」となっている。これは最後の方の評論を踏まえてのこみとだろう。しかしこれも、本全体への象徴性は薄いのではないかとも感じた。それでも、ここでいわゆる弱者へ向けられている共感については、地の果てまで行きとどいてほしいと思う福音があるとも考えられようか。
 著者の身の上話からまず聞かねばなるまい。牧師職には就かなかったままに牧師の夫を亡くし、生まれた子どもは障害を受ける。また、自分が教会の後を継ぐように牧師、また附属幼稚園の園長を務める。障害とは何だろうということを問い続けなければならない日々。そのとき、聖書の教えがまた新たな光のもとに全身を貫く。
 その細かな描写が痛々しい。しかし、目を背けてはならない。そこから福音と障害とを結びつける営みが始まる。聖書は何を言おうとしているのか、それは案外、これまでの男性の健全な眼差しからは見えなかったものが多々あるように思えてくる。フェミニズムの神学とも違い、弱い存在とどう向き合うかということがメインのようであるが、とにかく理不尽とも言えそうな中で、それでも神から離れない信仰と、そんな著者を離さない神の信頼が満ちている。
 説教も多く掲載されている。アブラハムの子を生んだハガルが追放されるところは、ドキリとした。私も男の一人に過ぎない。見えていなかった、そんな辛い立場なのかと心を揺さぶられた。
 弱い立場の者の視点。分かっているようで、分かってなどいなかった。その労苦を痛いほどに味わった人にとってはあたりまえの福音が、その立場に追い込まれたことのない観念的な理解者にとっては、とうていジャンプできぬ壁となって、その向こうに気づくことがないのだと感じた。イエス自身、どれほどの社会的身体的な弱者と向き合い、さも当然のことのように彼らの理解者となり、世に送り出してきたのであった。神はひとの心を分かってくださる、などというものではない。それがまさに血を流したのだ。呻くような言葉、小さくされた立場の者を、どうやって救っていくのか、その聖書理解が尊い。
 中ほどから後はほぼ説教集となっている。追い出されたハガルの上に注がれた神の守りの眼差し。どんなにその気持を、伝統の神学は放り出してしまうか、あるいはハガルにも心があるということにさえ気付こうともしなかったという悪夢のような瞬間が訪れる。男性中心の社会は、教会の歴史にも巣食っていた。当たり前のことが、見えない。そんな愕然とした出会いがここにある。
 悲惨な出来事を神の罰と思うなど、とんでもないことだと教えられる。その悲しみを味わうからこそ、人はつながることができるのだ。愛し合うことができるのだ。そうだ、それは当たり前ではないか、と気づかされるのも、この本によってであった。
 本としては、いろいろな原稿を集めたような形となっているが、一つひとつの説教や評論が、どんな労苦の中から絞り出されてきたものか、読者はきっと感じることだろう。その叫びが、少しは聞こえてくることだろう。
 実は2017年の雑誌『福音と世界』で頬を殴られたような気がして著者に関心を少しもっていたところへ、身近なところでこの著者に憧れているというような話を聞き、時の中で驚き合うが故に、ひとつ著書はないものかと探して購入してみたものである。イエスのまなざしが、愛に満ちたものであることはもちろんなのだが、あの弟子たちに投げかけることばのように、こんなことも気づかないのか、と言われそうな気がしてならなかった。だからまた、本書に出会えたことに感謝したのであった。




Takapan
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