本

『イエスの譬・その解釈』

ホンとの本

『イエスの譬・その解釈』
A.M.ハンター
高柳伊三郎・川島貞雄共訳
日本基督教団出版部
\380
1962.12.

 価格は50年以上も昔のものであることをご了承戴きたい。日本でも翻訳書がいろいろ出ている神学者の手による、福音書の「譬え」に特化した解説書である。当時はドッドやエレミアスといった、譬えについての研究の第一人者が注目された頃で、それを意識した見解が述べられているが、譬えに対する姿勢は、信仰的にも参考になるものが多いし、それでいて文献についての正統な研究の成果が盛り込まれていて、闇雲に自説を展開しようとしているものではない。
 つまりは、聖書について近年分かってきたことを突かれても正面から応答できるだけの理解を踏まえながらも、その理解でイエスと読者が出会う体験をもつことができる、そんな場がここに提供されているような気がするのである。
 大部な本ではないので、論旨は比較的簡潔で、注釈もしつこくない。それでいて調べようと思えば辿ることができるような道案内がきちんとできていることは間違いない。全体的に項目などがよく整理されていて、配慮ある構成になっていると思う。
 歴史的には、古代は寓喩が盛んであった。福音書でイエスが語った譬えの物語の中に、実にこまかな象徴を読み込むのである。よくぞここまで、と思うが、聞いた人は、そこまで神の意図を探るなんて凄い、と思ったことだろう。これはいまでもないわけではない。「霊的な解釈」と称して、実に細かな点まで、どこか都合のよいように説明してしまうのである。人間は、謎が宙ぶらりんにぶら下がっているのは気持ちが悪い。すとんと腹に落ちるような説明で安心する。だから、心霊現象なども面白がるし、それに尤もらしい説明をつけたものをありがたがる。新興宗教はそういう心理を巧みに利用していると見ることもできる。霊感商法はまして、それの塊である。
 しかしイエスの譬えは、そのようにすっきりさせようとするものではないはずである。ひとつの、何か大切なことを伝えるために、幾分具体的な情景を交えながら、言いたいことのエッセンスをイメージしてもらおうとして、疑似体験を起こすものである。私たちは、教育学習の現場でそれを自然に行っている。
 他方、やや複雑な事情も加わる。それは果たしてイエスが語ったそのままだろうか、という問題である。福音書はイエスが書いたものではなく、弟子たちが記録し編集したものである。それも、数十年という時を経てのものである。そこには、イエスが口にした語録がそのまま掲載されていたものがあるとしても、教会の理解があってこその書き方があるだろうし、中には教会が言いたいことのために曲げて記録したものがあるかもしれない。本書で強調されていたものでなるほどと思ったのは、譬えの話の最後に、教訓めいたものがある場合、それが教会の説明である場合が多く、しかもそれはイエスの譬えを誤解してしまっているケースが多々見られるという点であった。イソップ寓話には、この手の付け加えがよくなされている。これも、元来なかったものが、後の時代に書き加えられたというものだそうだが、果たしてその教訓が本当にその話とぴったり合っているものなのかどうか、吟味が必要であるはずである。福音書の譬えもそれと同じで、イエスの語録に基づく譬え話があるとしても、それをまとめた教訓めいたものがあちこち見られるわけであるが、それが譬えの本質を本当に的確に映し出しているものなのかどうか疑うべきだというのである。それで、いっそのことその最後に加えられた、いわば余計な一言を除いて譬えを味わうということが望ましいとまで言ってくる。確かに、そのほうが、純粋に譬えを自分に向けて与えられたメッセージとして読者は受け止めることができるし、色眼鏡なしにイエスの言葉を自分なりに感じる道であるかもしれない。これは私にとりまた聖書をどう読んでいくかについての、大いに頼もしいアドバイスとなった。
 その他、当時の文化事情を踏まえた上で、譬えについて現代のしかも環境や文化の異なる私たちが思い込みやすいことについても、注意を喚起し、初代教会もまたイエスを正確に理解していないとするならば、私たちはなおさらであることを弁えて、これからもイエスに目を向けてその言葉を聞きたいものだと、改めて思わされた次第である。でも、私たちの時代において、私の置かれた場所で、譬えをどう読むかということは、多分に違いがあってもよいのではないだろうか。私が神と出会い、イエスと向き合って、その言葉をどう受けたかということで私が変えられていく、そのための譬えは、あくまでも媒介であって、一定の真理や教義でなくてもよいはずだ。説教者がその都度、譬えについて新たな見解を、新たな体験として語ることもよいと思うし、それをまた会衆一人ひとりがそれぞれに受け容れて神のことばをその身を以て活かすことになるのなら、福音の種はイエスが求めたように、蒔かれていくことであろう。
 いまの教会、いまここにある私に、譬えは適用される。教会が陥りやすい独善や他者批判をよしとせず、誰もが神の前に、楽しく譬えを聞き、従うようでありたいと願うのだ。
 巻末に、附録として、具体的ないくつかの譬えについての注釈のような説明が載っている。これは実際どのように譬えを読んでいくかの指針となる。こういう附録はためになる。昔の本は、イラストも写真も何もなくとも、なかなか味わいがあるものだと改めて思う。




Takapan
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