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『イエスは何語を話したか?』

ホンとの本

『イエスは何語を話したか?』
土岐健治・村岡崇光
教文館
\2200+
2016.4.

 収められた多くの部分は、かつて出版されていたもので、1979年版とあるから、古いと言えば古い。しかし、類書がないことと、その後登場した翻訳に関する物言いなどもあって、付論を加える形でまとめた本であるという。
 確かに、この方面での学問的進展はあまり感じられない。というより、あまり誰も問題にしないようなのだ。
 だが、これは実は大きな問題であると私は捉えている。イエスは何語を話したのか、問題意識にない人が多いのではないだろうか。いや、それはアラム語って言われている、当たり前じゃないか、と少し学んだ人は言う。本当だろうか。聖書のどこに、そう書いてあるだろうか。
 そもそも新約聖書の言語自体、異様である。ギリシア語をイエスが話していたとはおよそ思えない状況にある。が、当時の国際的事情などもあり、結局新約聖書はギリシア語で広まっていった。しかし、新約聖書の文書が、最初からギリシア語で書かれたかどうか、についても異論がある。
 日本でも、新渡戸稲造や内村鑑三などのあの時代、英文での著作というのがあった。それは日本語ではなく、最初から英語で書かれており、海外への理解のためにそうされていた。むしろ逆輸入というわけではないが、後から日本語訳されて日本人に読みやすくされたというような事情もあるのだが、内容は日本の文化や思想である。明治期の特殊な事情もあろうが、興味深い現象である。その後、鈴木大拙など、海外で評価される日本思想は、そのような形をとることも多い。
 言ってみればそのように、新約聖書はギリシア語で書かれたが、内容は、ユダヤ文化の話である。明治の場合と同じだと断言できるだろうか。少なくとも、資料的には、ユダヤ文化つまりヘブライ語で記されていたのではないだろうか。アラム語はそれにいくらか近いとはいえ、庶民の言語であるのか文書がそうであったのかなど、よく分からない部分は多い。本書は、聖書のほかの文献の調査も踏まえ、当時パレスチナでは言語がどのように使われていたかの分析を行いつつ、それでも判然としない状況の中で、従来の安易な仮説に挑もうとしている。
 それがどうした、とお考えの人もあろう。だが、本書とは別に、たとえばユダヤ人としてのイエスを扱った研究において、強烈に、ヘブライ語が原典なのだと主張するようなものもある。そしてそれには実に説得力がある。たとえば、目はからだの灯りだという喩えがよく分からない。特に異邦人ルカの編集は、これを世の光と同類に並べているが、目から入った光が体から輝き出るというような解釈をしないと理解しづらい。他方マタイでは、この喩えは世の光とは距離を置き、別に扱っている。マタイは、ユダヤ文化を重視している。ヘブライ語を知らないはずはないとされる。そのマタイは、目が灯りだという話を、金に執着するなという文脈の中央に置いている。ヘブライ語で目が良いとか悪いとかいう慣用句は、気前がよいとかけちなとか、そういう意味で使われるのだという。これをギリシア語に直訳したのだが、ギリシア語のその表現は金のことを表すことができなかったので、ギリシア語でこれを読む限り、背後のヘブライ語を知らないならば意味が取れなくなってしまった、という説明がなされている。
 本書にはこの件はないが、付論においては、細かくギリシア語の検討がなされ、日本語訳に対して論戦を挑んでいる。そもそも新共同訳についても当初から意見を言い続けており、そして今回、岩波訳には多くの言いたいことがあるようで、徹底的に批判の矢を向けているように見える。細かなところに目をつければ本当にいろいろ言いたいことはあるだろうが、ともかくもこうして議論をしてくれたことで、私たちも、興味深く学ぶことができる。学問というものは確かに、いい加減にしないところがいいのだと改めて思った。叩かれたほうは気持ちがよくないだろうとは思うが。
 言語は、思想を決めることがある。あるいはまた、そういう思想風土だから言語がそのようになった、とも言える。この両輪は一体化しているので、そこから翻訳をするとなると、文化自体の移行が起こるし、またそのスライドに不備が発生する。だから、イエス自身が何語で神のことばを告げたかということは、本当に決定的に重大な関心事であるはずだったのである。それを蔑ろにして、まるで何語で書いても数学の公式は同じ、みたいな楽天的な見解でいのちのことばを読んで平気であったとすると、私たちはなんと神のことばに対して鈍い反応をしていたことだろうと思う。これからも、関心をもって、この問題に取り組み、恰もギリシア語さえ勉強すれば新約聖書は分かる、などといった的はずれな思い込みからは解放されていたいと思う。そして、細かくギリシア語の用法を研究すればイエスの心が分かる、という、およそ不可能な幻想に囚われないようにしたいと願う。




Takapan
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