本

『イエス伝』

ホンとの本

『イエス伝』
若松英輔
中央公論新社
\2500+
2015.12.

 テレビの100分de名著において、内村鑑三の「代表的日本人」の解説者ということで名がさらに知られるようになった著者であるが、内村鑑三については私もかつてこの著者の小さな本を見ていた。テレビでも温厚で謙遜な様子が見て取れたのだが、文章のほうも、その姿を見て読むと、また違って味わいがあった。
 聖書を薦めるという気持ちは、あるかもしれない。が、そういう仕事ではないという自覚もあるようだ。人の痛みや悲しみの深みを読もうという姿勢で、聖書と向かい合っている。聖書の文字の間といわず奥底に潜む真実まで沈み込んでいこうとしているように見える。
 かつて「沈潜」という言葉があった。自己の奥底にあるものを探ろうとする時にも言われた。いま、果たしてこの言葉が活動していると言えるだろうか。情報過多の中で、どうしたらそれを活用できるか、自分のために利用できるかということばかり考え、実利がなければする価値もないと思われ、見た目などきわめて表面的なことを滑っていくことこそがトレンドであるような世相。沈潜して考えるなどもってのほかで、いかに思考停止をするかこそ処世術であるかともてはやされるような空気。そんな中で迷いがあれば、ひたすら「自分を信じる」だけで貫こうとし、あるいは自分の殻に閉じこもり一切の交流をさえ拒んでしまうことが唯一の自己防衛となるばかり。表向きはいい顔をして調子を合わせていることで、弾かれないように気を遣うというのが処世術であるとすれば、何か深いところにわざわざ訪ねていく必要などない。
 著者は、静かに見つめている。この言葉の奥には何があるのか。聖書が二千年あるいはそれ以上に受け継がれてきたということだけでも、十分そこに真実があることが窺えるが、いままた自分が、数知れぬ先人たちの後に、こうして聖書と差し向かいになりそこから何かを聴き取ろうとするとき、一体何を受けとめればよいのか、自分に問いかけつつ、さらにまた聖書に向かっていく。
 イエスの誕生が人々に待たれていた時代、イエスが地上で旅する時、そして十字架や復活の時。私たちは、自由にその行程に参加することができる。こんな恵まれた環境はない。イエスは私たちに同行してくれるが、私たちもまた、意志さえあれば、イエスに従って旅ができるのだ。著者は、福音書の中に描かれたある場面を切り取りつつ、そこに思いを重ねていく。特徴的なのは、臨場感だと私は思った。恰もその場面に自分がいるという前提で考えること。そのつもりで描写を読むこと、いや、正確に言えば、どういう情況であったなら、そのように描写するだろうかというところを探ること。
 著者は、文学について批評をなす人である。お気に入りの人が幾人かいるようだが、いずれも聖書に何らかの形で関わってくる。多くの文学者や知識人が、聖書と向き合っている。聖書は、信徒だけの秘密文書ではない。いま信じていなくても、あるいは洗礼を受けることがたとえなくても、神の方を向き、神からのことばを期待する、すべての人のために聖書はある。そのスタンスで、誰もが聖書の世界に飛び込むことができるように、いや、そうなってほしいように、読者を聖書の中へと誘う営みが、この本にはあるように思われた。
 狭い教義的な理解がどうのこうの、というのではない。ひとりの魂が、聖書と向かい合い、神と出会い、神と対話すること。それぞれの生き方の中に、様々な形で影響を与える聖書というものを認め、その力を期待すること。多くの文学者や著名人も、そのようにして聖書を読んだ。その意味では、信徒数の統計によらず、聖書は日本人に大きな影響を与えていると思われる。
 常時説教をする牧師ではないにしろ、説教経験のある私には、講壇で深めたい視点や向き合い方など、多くのことを本書に学んだ。ひとりの人の真実な問いかけと格闘がそこにあるから、そういうことができる。カトリック信仰をもつ著者はまた、私生活においても試練を受け、ひとの悲しみというものを噛みしめたという。イエスはしばしば人に共感し、悲しみ涙さえ流したが、著者のように、そうしたものを感じとる心があってこそ、これだけの誠実な読み方が提供されるものだと思った。




Takapan
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