本

『主イエスに出会った人びと』

ホンとの本

『主イエスに出会った人びと』
加藤常昭
教文館
\2000+
2000.7.

 FEBC(キリスト教放送局)で放送された講座を文章として仕上げたものが「講話」としてまとめられている。加藤常昭信仰講話と題したシリーズの第四巻。これは、教会で礼拝の一部として語る「説教」ではない。が、限りなくそれに近いものとなっており、いわば伝道礼拝として比較的分かりやすく聖書を解き明かすというふうに考えるならば、より適切であろうと思われる。
 この講座は全部で26回、おそらく半年分にあたり、放送の基準からそうなっているのであろうが、説教塾主宰たる加藤常昭先生の魅力を十二分に伝えるものとなっている。
 幼子キリストを抱いた老人に始まり、病をもつ者、子を助けたい必死の父親、異邦人の百人隊長から、罪に満ちた女など、福音書に登場する人々が次々と紹介される。聖書を知る読者にとっては、馴染み深い人々であるが、もし聖書をよく知らない人が読んだとしても、その都度説明が施され、臨場感あふれる紹介、そしてそれに対するイエスの様子が描かれ、さらにその意義について問いかけることから、およそ考えられる限りの最高のシチュエーションを見せてくれていると言える。ニコデモやザアカイという、名の残された人もいるし、ついには弟子ペトロがいくつかの場面で取り上げられる。それだけ、著者がペトロに何かを感じているから、とも言えるが、福音書のいくつもの場面で、ペトロは様々な人間の側面を表している。つまり、ペトロ像は、何も一人の人間をそこに描いているわけではないと思うのだ。
 福音書は二千年近く前に書かれた本である。だから、そのときの文化において捉えること、当時の人々の感じ方を調べたり想像したりするのでなければ、妙に誤解をしてしまいそうである。しかしながら、それか昔話で終わるようなものとしてそこに置かれているのではない、と著者も強く感じている。どれも、現代人にとり無関係な出来事、おとぎ話の中の出来事であるわけではないのである。
 福音書の中の出来事は、生きた人間の証しである。生ける神に、人間が出会ったときに、どのようであったかという記録でもあるし、福音書か書かれたときに各地の教会で読まれ、読む、あるいは読み聞かせられる、一人ひとりがまた、そのようなイエスと出会うことが望まれている、そうした書物であったはずである。
 ならば、私たちはどうだろうか。私たち現代人も、ここに描かれた時代のイエスと人との出会いの出来事が、現代にも再現されうるものでなければならないのではないか。そして、福音書の中でイエスに出会った人々のことが書かれてあるように見せかけながら、その実真の著者の目的は、読者の一人である自分なる私が、このラジオ放送や文章を通じて、イエス・キリストと出会うことであったことになりはしないだろうか。読者が、主イエスに出会った人びとの中のひとりになる、というのが、本書の願いであったものと思われてならない。
 信仰しているから、そんな必要はないよ、などと言うことはできない。どんなに信仰が長く続いていたとしても、聖書は日々新しい。イエスとの出会いは、ある意味で一度きりのことであったかもしれないが、朝ごとに新しいイエスの恵みは、その都度新たな姿で臨んできて、イエスと出会う日々を創造することになるに違いない。ベテランのクリスチャンであっても、今日また改めて、主イエスに出会った人びとのうちのひとりにしてもらうことができる。いや、そのうちのひとりであらねばならない。それが、主に従うということになるからである。
 読者が主と出会うことに至るように、という願いは、「あとがき」でも触れてあった。しかし、私たちはこの本を読み進んでいるうちに、そのようなことはもう済ませているに違いない。出会いを確かなものにするために、さらさらと読み進むのではなくて、たとえば一日に一章だけと制限し、一ヶ月で読み終わるというくらいに考えたほうがよいとお薦めする。じっくり味わって、一人の人間として、その都度イエスとの出会いを経験しながら、毎日を心豊かにさせて戴きたい。




Takapan
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