本

『主イエスの生涯 上』

ホンとの本

『主イエスの生涯 上』
加藤常昭
教文館
\2000+
1999.10.

 加藤常昭氏は、日本で「説教とは何か」を語らせるためにはどうしてもそこにいてもらわなければならない人である。ドイツに学び、多くの神学者と交わってきた。バルトをはじめ、多くの神学者が日本に訪れるときの通訳を務め、多くの良書を翻訳してきた。自らも説教塾を開き、日本の牧者たちの説教を、そして礼拝と牧会を変えていった。その功績はいくら挙げても尽きることがない。
 FEBCというキリスト教放送局へも多く出演し、福音を分かりやすく伝えることに使命を覚えてきた。この本も、そのうちの一つである。だから、ある意味でこれは説教と呼んでも差し支えないほどの内容であるのだが、タイトルには「信仰講話」書かれている。講壇の説教よりもずっと、放送という媒体を意識して、聖書のことをよく知らない人にも伝わる言葉を選び話している。だが、そこに手を抜いているような気配は微塵も感じられない。それどころか、そうした方々に一度聞くだけで何かを残したいという思いからか、よりいっそう研ぎ澄まされた語りとなっていることは間違いない。
 テーマは、イエスの生涯である。ここには放送半年分、つまり26回分が収められているのだが、そのうち第10回でようやく少年イエスが登場する。それまでは、いわばクリスマスの内容である。それだけそこに注目するべきものがあるという考えである。決して、クリスマスの話なら人々は聞いてくれるだろうなどという計算をしているわけではない。これでもまだ語り足りないほどのものなのだという。
 一つひとつのエピソードは、信徒にはおなじみのものである。だが、だからといって、聞き慣れた聖書の「お話」が展開されるわけではない。私も幾度膝を叩き、天を仰いで、ああそうか、と息を吐いたことであろう。そんな見方があるのか、とその度に感動を覚えた。私はこうした説教ものについては、それなりに広く読みあさっており、様々な説教を実際聞いてもいる。それでもなお、この本で初めて出会うイエスがそこにいたのだ。同じ聖書から毎週説教があり、それが二千年近く続いており、各教会で違う人が語っているという事実を考えると、語られることはもう限られており新しいことは何もないのではないか、と思われるかもしれないが、事実は逆である。聖書は、汲めども尽きぬ泉である。いくら語っても語り尽くせない。ヨハネの福音書がすべてを本にしてもイエスの物語は収めきれないと告げているが、まさに説教というものが、それを証ししている。
 襟を正される。これは決して初心者向けのメッセージではない。いや、もちろんそれもあるのだが、どんなに長く信仰生活を送ってきていても、厳しい言葉が突き刺さり、ずしりと重い感覚をからだに遺していく。まことに、心してかからないと、イエスの力に倒れた兵士たちのように、私たちもまた、ただ驚いて倒れるしかないのかもしれないとさえ思う。けれども、私たちは恵みの中にいる。イエスの力を受ける鍵を与えられている。その十字架に共に死に、キリストが生きるという体験をもつならば、これらの鋭いことばはすべてが私の力となる。
 十二弟子を平和の使者として派遣するところでこの上巻は終わり、後半は下巻へと持ち越される。実はこの下巻が、市場で価格がなかなか下がらず、買い控えている。もちろん下巻は、イエスの十字架と復活が盛り込まれているわけで、ぜひそこを読みたいと願っている。古書という限られた入手経路の中で、価格云々を持ち出している場合ではないとは思うのだが、このためらいが、よい入手へとつながることを、心密かに願うばかりである。




Takapan
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