本

『日本的感性』

ホンとの本

『日本的感性』
佐々木健一
中公新書2072
\903
2010.9.

 美学の本である。ドイツ語でエステティーク。エステなるものは痩身術のことだと理解されているふしがあるが、そもそも美とは何か、という辺りを睨む、哲学の分野である。カントは、『判断力批判』という第三批判において、これを展開した。判断力というのはつまるところ構想力のことであり、あるいはまた想像力のことである。
 この本は、その西洋美学とは一線を画する。日本人の美学を、なんとか説明しようという試みである。あまりに西洋と対比しすぎかとも思われたが、中に入るとそうでもない。確かに慣れない方法ではある。和歌を例に挙げ、そこに共通して用いられている語、たとえば「おもかげ」を取り上げて、その背後にある概念をなんとか言葉にしていこうとすることの繰り返しである。それは、ことさらに原理的な理由による配列ではないと断られている。そして「なごり」「なつかしさ」「梅の移り香」などと続くと、次は「なんとなく」の世界が待っている。「そこはかとなく」「なにとなく」「さだめなし」という具合である。それから気色という言葉が、やがて景色と結びついていくさまが描かれている。しかし、だんだんと概念把握に走るようになる。だんだんと、マニアックと言うと失礼かもしれないが、「わたり」から「ずらし」という、著者の苦心した根本概念に向かって突き進むようになる。
 驚くことに、最後の40頁ほどが、まとめになっている。新書であれ、一定のまとめがなされるということは、もちろんある。だが、この本の量は度肝を抜く。そして、まるで論文の要旨を掲載するかのごとく、これまでの検討を要約したものが延々と記されているのである。学術的には実に適切な配慮であるかもしれないが、果たして新書としてはどうなのだろうか。あるいはまた、難解な美学の細かな検討は十分頭に整理しながら読めている読者がそう多くないという見通しの下に、要約で振り返りつつ、この偶然の並びであるかのように見せていた歩みが、ひとつの幽玄世界への確実な足取りであったということを、整理させ、印象づけようというのであろうか。この要約だけでも一つの提示にはなるだろうが、さすがに和歌の例を細かく扱う段階を省略しては、伝わるものがなくなっていくかもしれない。面白い試みである。
 果たして、この試みが成功しているのかどうか、それは専門家の世界を待つしかない。こうした挑戦においては、つかみは重要であり、それを著者は桜にて実践している。西洋では、花ならばたとえば薔薇のように、ひとつの花を主役に取り上げ、そこに焦点を当てて行く。対象を明確に他と切り離して分節していく。しかし日本的美学からすれば、桜である。桜は、一輪を取り出して鑑賞しはしない。集団で、全体として花として認識し、花と呼ぶ。そして、それは花を見、体験する人間を包み込むものである。この花はひとつの背景として遠ざかった距離をもち、しかも、周辺をくまなく包み囲んでいる。
 こうした存在の優位性が、かつて「空気」として論じられたことがある。近年でも、「空気読めない」という形で子どもにでも分かる流行語になったことがある。包み込むこの「空気」というものが、私たちを如何に決定する力をもっているか、それを痛いほど感じている。その空気と自分とは、接触感覚すら確かにあるのである。だが、この本が前提としているのは、「世界」と「われ」の分離である。もちろん、それが接触していくというところに日本的感性を見いだしていくという方向性はあるにしても、「世界」と「われ」とが別々に存在している、あるいは存在するものである、という前提を疑ったり、他のあり方を想定している様子ではないように見える。よく、自然の一部として人間を見ている、と自負しつつ日本精神を考える人がいるが、そのような根の生え方自体が、西洋的な個人意識とは無縁のものであるとするならば、この本の漸近線的アプローチが、果たして前提として適切なものであったかどうか、分からなくなるかもしれない、と感じた。
 いや、よく理解できない素人のぼやきに過ぎないのではあるけれども。




Takapan
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