本

『日本の哲学をよむ』

ホンとの本

『日本の哲学をよむ』
田中久文
ちくま学芸文庫
\1200+
2015.3.

 着眼点からしても、主張の姿勢からしても、一考の価値ある本を提示してもらえた気がする。
 タイトルのニュアンスは、読者が抱けばよいと思う。どうして「読む」ではないのか、日本の哲学とは何か。ここでは、京都学派に限った取り上げ方をしているが、日本で哲学と言えば、やはり彼らであった。ほかに哲学がないというわけではない。京都こそ第一だと地元意識のようなものを持つ故でもない。
 しかし、これは「哲学」である。哲学研究でもなければ、西洋哲学の紹介でもない。西洋に負けない、というと語弊があるが、西洋式でない、日本での思索を、しかもない西洋の論理を踏まえたものとして提示しようという意気込みがそこにあった。恰も、明治維新以来、西洋の形式に適うような形ででも、世界的に有力な国家としての姿を締めそうともがいてきた政治的な働きと並行するかのように、である。
 もちろん、西田幾多郎がその先駆ということでよい。様々な説もあるかもしれない。だが、その影響力からしても、西田哲学をさしおいて、日本の哲学を論ずることは、やはりできない。しかし、西田だけを取り上げればそれで十分というような捉え方で終わるつもりも著者にはない。西田がやり残したこと、それを受け継いだ弟子たち、それは西田の思想の何をどう継ぎ、何をどう批判したのか。この視点から、京都における思索の系譜をここにたどろうとするのである。
 必ずしも「京都」と認めがたい人物がそこにいたとしても、京都に無関係ではなく、また哲学思想とその関連からしても、このつながりの中で捉えることには意義があるという意味で、ここにまとめられたメンバーがいる。田辺元・和辻哲郎・九鬼修造・三木清である。著者は、すでにこの本の元になる本を2000年にちくま新書から上梓している。が、そこでは田辺元が論じられていなかった。多岐にわたるその思索を、新書の中に一筋のものとして招き入れることができなかったからであるという。しかし、今回田辺を学びひとつの流れに置いてみると、案じたよりも治まりがよく、論点を保つためにも有効であったものらしい。そういうわけで、これらの京都学派ないしそこに著者がカウントする和辻哲郎とが一堂に会したような本書は、まことに読みやすく、本の裏にある「入門書の決定版」という触れ込みも、まんざらオーバーではないものと目に映った。
 副題が「「無」の思想の系譜」である。西田哲学といえばやはり避けられない「無」の概念であるが、著者にすれば、これは結局形而上学的概念一般のものと変わりないようなものとなってしまい、これを弟子が本来の「無」ないし、自分の想定する「無」の思索を深めていったというのである。そして、それはまた、西洋哲学における「無」や「自由」の概念とは別の日本哲学の思索として展開していくことが確かにあったのだ、と主張している。
 本書の慧眼は、たんにこの5人の思想を紹介するのではなく、彼らの人生そのものをたどり、思索と重ね、いや、思索を人生そのものから描き出そうと尽力しているところである。人生の中での不幸や寂しさ、生い立ちからの影響、そういったものを、精一杯想像しながら、思索に反映させようとしている。それは時に行き過ぎた観があるかもしれない。しかし、人生と思索との関連を抜きにして、それこそ抽象的な哲学思想を広げてみても、魅力が果たしてあるだろうか。また、その真意が理解されるであろうか。特に私は九鬼周造の生い立ちの中に描かれた、どこか悔しいような寂しいような辛さには、涙が出そうになったほどである。だからこそ、こんなに偶然性やいきという課題に取り組んでいたのか、その美学の背景にある思いがあったのか、などと、いらぬことかもしれないが、想像をしてしまった。
 もちろん、それで安易に片づけてはならない。課題は、「無」の系譜である。
 これをこなしながら、著者はたぶんこんなことを言いたいのではないかと想像した。魂の叫びでもあるようなこれらの思索は、その後もう切断され、顧みられなくなっているように見えるが、行き詰まったこの時代に、打ち破るような人間の真実のようなものが、あるいはそのヒントが、そこにあるのではないか。彼らは、時に美、時に宗教を誠実に踏まえて考えた。単純な信仰に走ったのではなかったが、信仰をやはりどうしても消せなかったようなところもあり、むしろ信仰故に従来とは違う新たな思想が展開されている原稿が、発見されたような例もある。いままた、西洋哲学のたんなる輸入やその世界の流行廃りに振り回されているようなところもある日本の哲学界の中で、身を振り絞って思索するような彼らの伝統を、見直す時が来ているのではないだろうか。
 私の理解が不足しているのは重々承知しているが、そんな響きを私は受け止めた。新しく「生きる」ための哲学のため、思索のため、この振り返りは、意義ある試みなのではないか、と私は強く感じた。その意味での意欲作として、これは多くの哲学徒に刺激を与えうる作品ではないかと思うのだ。




Takapan
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