本

『イエス・キリストの人間観』

ホンとの本

『イエス・キリストの人間観』
志村真
角川学芸出版
\1799
2008.4.

 サブタイトルにこう書いてある。
「キリスト教福祉論」序説として
 大学の講義のテキストとしての目的があり、中を読むとそのように呼びかけられていることはっきりしている。信者ではないが、キリスト教系の大学で、あるいは福祉系の大学で、キリスト教の観点からの講座として用意されているものに出席した学生に教える内容が整理されているものだと見て差し支えないだろう。だからあまり一般的には出回らないタイプの本であるのかもしれず、私も偶然紀伊國屋書店で見つけて手にしたわけだが、他では殆ど見かけることかない本である。
 著者は牧師としての立場もあった。その意味で、一人の信仰者である。だが、必ずしも聖書に対して原理主義者ではない。だがそれゆえに自由に聖書を解釈してよいと走ることもない。いわば、穏健な現実的理解をしていると言える。ただ、その聖書への目のつけどころはさすがというか、細かく、弱者の視点を歴史的な研究をまじえ、徹底的に保っている。
 たとえば、福音書には、幾度も盲人が登場する。生まれつき目の見えない人が多い。それは果たして、純粋に生まれ落ちたそのときからなのだろうか。当時、子どもが必要ない場合も大人にはあった。ローマ・ギリシア社会においては、父親が抱き上げない子どもはその家の子とは認められずに、遺棄される、つまりは捨てられることがあったのだ。捨て子が拾われ、あるいは誘拐されて、誰かの道具となっていく。その子はわざと傷つけられ、見せ物となり、また哀れを誘う者として物乞いに使われたというのである。たとえば目を潰されることもその一つであった。障害者がつくられていたという研究事実を、著者は指摘している。
 子ども、女性、老人、その他貧しい人々など、当時の「小さな人々」を著者は追いかける。聖書は福祉の本ではないのだが、それにしても、イエスが当時としてはどれほど時代を飛び抜けていた、そしてまたおそらく現代でも十分通じる福祉の視点をもっていたかを指摘する。奴隷についてもそうである。旧約聖書そのものの中に、福祉的観点はあるものの、特にイエスは際立っていたのだという。
 聖書の細かな表現に目をとめ、そこから見出される背景を鋭く描き出す。当時の歴史的背景も視野に入れると、聖書だけでは何気なく見落としていたところが、深い理由と世情との仲で浮かび上がってくる。そして、イエスの画期的な教えが目立ってくる。
 著者は、いわゆる原理主義の立場をとらない。現代福祉理論をベースにしている以上、そして聖書そのものの中に差別的なものが実はあり、だからまた誤りが一つもないなどとは決して言えず、そして歴史的に聖書が都合良く利用されて差別にも用いられてきたという事実をごまかさずに正面から指摘することによって、人を、命を重要視する態度を明確にもっている。アメリカの黒人奴隷問題についても、詳しくその歪んだ見方が暴露されている。生まれつき呪われているとさえ考えられていた障害者などの問題も、丁寧に特集されて論じられる。
 最後に、宗教的多元論の立場から、学生へ向けて、宗教にどのような理解をもち、どのような態度をとるのがよいか、伝えている。これではキリスト教の宣伝にはならないことだろうが、こうした宗教教育が欠けている現状の中では、実に立派な試みであり、呼びかけである。これが浸透していれば、オウム真理教事件はなかったかもしれないと思われるほどだ。
 決して信仰書として著されたものではない。だが、イエスの救いはクリスチャンの最大の関心事である。それがどのような視点からどのような地平へ向けてもたらされていたか、それを知るために、この本は類書をもたない、画期的な本であるといえる。聖書を解釈し、あるいは説教する立場の人には強くお勧めしたい一冊である。逆に、信仰に入って間がない方にはお勧めできない。戸惑いや疑いの原因になりかねない。
 著者が聖書を読むのは、聖書の言葉、悪く言えば言葉尻にかかずらうのではなくて、イエスがどんな意図で、どんな方向性をもちながらその言葉を言ったのか、それをなしたのか、そこから捉えるというものである。解釈の作業が入ってしまうのは否めないが、言葉の上での誤解や思いこみを避けることができるかもしれない。私はもっと言葉そのものに信を置くし、また現代社会が進歩しているとは必ずしも考えないので、著者よりはもっと聖書信仰の立場に近いと思う。だが、この細かな読み方にはたくさんのことを教えられる。学びのためにもうれしい出会いのできた本であった。




Takapan
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