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『ギリシャ語の響き』

ホンとの本

『ギリシャ語の響き』
渡辺俊彦
イーグレープ
\1000+
2015.10.

 新約聖書はギリシア語で書かれている。これは不思議なことである。イエス自身がギリシア語を語っていたとは思えない。弟子たちも概してそうである。不十分な喩えであることは承知の上で言うと、私たち日本人の中で伝統的にある宗教について改革が行われたとき、新しい改革派の教典を、英語でまとめたようなものである。そのとき、果たして伝統的な文化の内容が、英語により十分表せるのかどうか、私たちからすると疑問にすら思う。従って、聖書の批評学などを含めた研究の中で、ギリシア語を熱心に読み解き、このギリシア語の意味はこうであるから、イエスの言ったことはこういう意味である、と断定していく場合、気をつけなければならないような気がする。日本の伝統文化の説明が英語でなされていたとき、英語の意味はこういう含みがあるから、この日本の文化の意味はこれこれである、と言われたら、果たしてそうかな、と思わないだろうか。
 その意味で、聖書がギリシア語で書かれているということは、非常に不思議なことであるように思う。また、私たちも、ギリシア語の意味や背景に拘泥しすぎた場合、それでよいのかどうか立ち止まる必要がないだろうかと自問せざるをえない。
 パウロはギリシア語も器用にこなした。それだけの教育を受けてきていた。だから、パウロの手紙がギリシア語で書かれ、ギリシア文化の地域の人々に向けられていたということは、ひとつの鍵になる。パウロは、ユダヤ文化を、なんとか英語で伝えようとしたのである。これも相応しくないたとえかもしれないが、内村鑑三、新渡戸稲造や鈴木大拙など、英語の著作が海外への紹介のために貢献したという事例を見ると近いかもしれない。
 新約聖書の筆者は多数いるが、パウロが確かに一番多い。それを基準にして、ギリシア語のたどたどしい著者もいれば、うますぎて気取っている場合もある。それらを一緒くたにして論ずるのは無謀かもしれない。また、扱われているギリシア語の言葉の特徴を一括りにするというのも乱暴であろう。
 しかし、そういうことを置いていても、さしあたり、新約聖書に使われているギリシア語は、それなりに考え抜かれて用いられた言葉である。なんとか英語で日本文化を伝えるならばどうしようか、と思案する近代人と同様に、聖書の文化をギリシア語で伝えるならば、これを用いるしかない、これのほうが誤解が少ない、そんな気持ちで選ばれた言葉なのであろうと思う。
 この本は、ギリシア語の単語に限り、その語のニュアンスや背景知識について紹介したものである。それぞれ一定の枠の中で連載されたもののように見え、分量的に揃えられているから、中には述べ足りないものもあるかもしれない。他方、それだから読みやすいというのもあるし、まとめやすいという考えもある。とにかく、そのギリシア語のもつ本来の意味を、多少辞書的にでも教えてくれるというのは、一般信徒にとり、ありがたいものである。日本語に直されたものから拡がる想像というものは、時にもとの語のニュアンスを無視してしまうことがあるからだ。どうしても翻訳する以上は、一定の日本語に直さなければならない。しかし、いったん定められ提示された日本語しか見ない読者は、その背景のギリシア語の雰囲気について気づかない部分がたくさんあるだろう。カットされた部分、よけいに付け加えられたニュアンスなどもあろう。フィルターを通して示された日本語が、聖書の伝えたいすべてだと思い込むことは、時に危険である。それを少しでも軽減するために、そのギリシア語について、素人的な説明でもなんでもいいから、いくらか原語の構成や、使用例などについて知ることは、よいことである。学的研究というほどのものでなくとも、信仰生活に役立つことは間違いない。
 その点、非常にソフトで読みやすい。また、信仰を中心に据えているので、その語の意味を読みとって、信仰生活に活かすための準備がそこにあると考えることもできる。非常に有用であると思うし、親切だと思う。
 ただ、少し大きめの本となり、一つのコラムが2頁という形式の中で、右頁はぎっしり行間が詰まっているような印象を与えた割には、左の頁は8割方空白になっているというのは、本の構成上、かなり不自然である。それならば、小さなサイズにするとか、行間を空けて左の頁の余白を少なくするとよいのに、と私などは思う。ただ、こういう考え方もあるようだ。それは、自分でその語について調べたことや、思ったことなどを書き込むために、十分なノート余白が用意されている、という考え方である。おそらくそういうことだろう。聖書を読むときのガイドとしてそばに置き、何かとそこに引用なり、人によってはギリシア語の綴りなり、メモを落としていけば、自分だけの学習ノートができるし、デボーションにも役立つのではないか。そのように好意的に受け取ることにしておこう。ならば、そのことを本の中で説明してもらってもよかったような気がする、というのは、余計なおねだりであろうか。




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