本

『神は言葉のなかへ』

ホンとの本

『神は言葉のなかへ』
E.シュヴァイツァー
青野太潮訳
ヨルダン社
\1800+
1980.5.

 訳者が師事したドイツの神学部教授は、世界的に知られる新約聖書学者であった。その説教は、学者ならずとも誰にでも親しめる。しかも、その語る福音については誰にも力が与えられ、神の恵みを受けるに相応しい。ここに、その説教が翻訳されることとなった。
 愛する者からの手紙を読むかのごとくにテキストを読め。この解釈学の根本に関わる意識は、学者的に読むのでなくても、私たちはあらゆる説教に対して、おそらく自然に実行していることに関係しているだろう。それとも、そもそも私たち会衆は、牧師の優れた説教について、それを感じ取る心をもっていないのだろうか。そこにすばらしい神の言葉があるにも拘らず、それに無頓着で、聞く耳をもたず、無駄に空気に流して消してしまっているだけなのだろうか。神のことばは無駄には神の懐に還らないとはいうが、そこに私たちが入り込み、恵みを受けることができるかどうかは、私たちの気づきによるのかもしれない。
 それはそうとして、本書に見られる説教についてであるが、私は大いに刺激を受けた。というのは、そこに語られる具体的な描写て惹き込んでいくその迫力もさることながら、目のつけどころか違うのである。私も多くの説教を耳にしてきたが、そんな私の期待を裏切るような展開が、本書の説教で随所に見られたのである。そうなるの、まさか、そこ? 驚きつつ聞き進み、そうしていつしか福音の真髄についても、思いもよらなかった視点が提供される。つまり、この説教の波に私は自分の泳ぎ方をまず見失い、流され、気づいたら楽園に連れてこられている、そのような印象である。こうした経験は、なかなか普通の説教集では味わえない。ふだんなら、自分の泳ぎを助けてくれるとか、ちょっと手を貸してくれるとかいうレベルなのだろうが、本書の説教は違う。もうあれよあれよと言う間に、知らないところに連れて行かれるのである。時折溺れるような経験をする。それでいて、ちゃんと生かされている。否、以前よりももっと命溢れる者に変えられて、生き生きとした自分を見出すことになるのである。
 アダムの罪についても、ヘビの疑問にしろエバの言い分にしろ、それを「正しい」と言ってしまう。しかし、人間は自分が神から離れて罪に陥るさまに全く気がつかないのだ、と転じて言う。そう、私たちはへたをすると、罪はどうだ、原罪とは、救いとは、そして神の業とは……と、さも自分が神の摂理をすべて解説する代弁者であるかのようにして、分かったような気になって喋っているものである。だが、考えてみれば私たちは何も知らない。何も気づいていない。むしろ、知らないと口にしているほうがまだましである。自分は神学を知っている、聖書を読み解いている、などと思っているうちに、全く気づかない罠により、取り返しのつかないところにまで堕ちていくのがオチなのである。私もそういう様を見たことがあるし、自分にしろそのようなものでしかない、といつも戒めている。戒めているからよいというものでもないところがまた、怖いのである。
 そして、知恵の木の実を食べてから後は、神のごとくになると神に言わしめたのだが、実は、その後が大変なのであって、著者が言うには、世界か自分にとりどうにでもなるものとなり、繰り返し新たに神のごとくにならなければならなくなったのである。神のごとくになったばかりでなく、神のごとくにならねばならなかった、という指摘は私にとり新鮮であった。そのように振る舞い続けるしかなかったのである。こうして自分では気がつかないほどに、微妙なずれ方をし続けて、どんどん神のごとくになっていることが当然のことのように思い込んでしまい、もはやそのおかしさにさえ気づくことがなくなってしまうというのである。そして、自分は良い、自分は正しい、と確信犯であるのを当然としてしまうのであ。かくも、罪は巧妙なのである。それでいて、そこに不安はつきまとうのである。
 イエスは、これを、おなじ「それて良い」という形ではあるが、喜びと共に私たちがあることができるようにしてくださる。私たちは神の声を聞く耳を与えられている、それが聞こえるようになる、というのである。
 イエスのその十字架についての説教もある。通常聞かないような説教である。徹底的に十字架のイエスに注目した中で得られる神からのメッセージである。安易な、口先だけの救いの福音というものについて、私たちは、それでよいのか、と問い直す時が来ているのではないだろうか。私個人の十字架体験も、安易な十字架のメッセージとは違うと思う。もっと別の問いの中で神と格闘している中で、惨めな姿を呈して黙っていたイエスが、私を引き上げて行った。本書の説教は、そんな私の体験に、ずっと近いと思う。罪についての感じ方も、ずっと近いと思う。
 古い本ではあるが、この説教は、もう一度いま問い直されるべき価値を有しているのではないかと強く感じる。この「ことば」の中に神は来てくださる。説教のスタイルは様々あれど、命ある説教とそうでないのとでは、はっきり分かれるにも拘らず、案外キリスト者たちは無頓着であるのではないか、とも思われてならない。




Takapan
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