本

『神は数学者か?』

ホンとの本

『神は数学者か?』
マリオ・リヴィオ
千葉敏生訳
早川書房
\2415
2011.10.

 原題も同様、「神は数学者か?」である。「はじめに」もその問いから始まっている。
 しかしこの問いは、この問いのままで完遂はしない。この問いは、重要な次の調査を期待していたのだ。「自然科学における数学の不条理な有効性」について。著者は、この本の前に著した本で、そのテーマについて扱っている。それをここではより広範囲に調べ、そして徹底したという具合である。
 中心点は、数学が自然にどう適用できるのかということである。純粋数学がどうして自然科学に適用可能であるのか、という問いかけを抱いて数学史を辿るのである。純数な思考の産物である数学が、自然現象の解明とその利用とに適合する理由を調べるのである。
 これはカントの問題意識とそう遠いところではない。『純粋理性批判』において人間の認識の構造を説いたカントは、数学を直観の枠の中で遂行できるものとし、悟性が対象なしではたらく中で時間と空間の形式にあてはまるものとして想定した。しかし自然科学はその形式の中で対象として認識されるところに成立するものと見なされた。人間の認識構造の中で、つまり理性による認識過程の中で対象が与えられることにより直観の形式が働くようにし、むしろカントの関心はその後の理性の道徳律による命法にあったから、事故の認識論の中でそれ以上は問わない性質のものであった。
 しかし、不思議と言えば不思議である。この奇妙な事実への問いかけのために、神を持ち出したのだ。あるいは、歴史を辿ってくる中で、神の定めが重要な役割を果たしていた故であろうか。あまりにも神的な神秘に満ちた数学。だがそれはなんとこの自然の解明に適合するのであふろうか。神は数学者なのだろうか。数学とはそのようなものなのであろうか。
 この数学の自然への適用については、二種類を区別すべきだと著者は言う。数学が自然の解明のために、いわば最初から役立つことを前提として利用されていく適用。それから、一度は自然との適合を期待されつつもそれに失敗し、しかしその分野で数学が深められていくと、後から自然の中にその数学に適合するものが見いだされていく、いわば偶然に消極的に数学が自然を予言するようなケースである。神は自然を創造したとき、この数学を基に設計したのだろうか。そのようなものとして数学は、神の領域のものと言ってよいのだろうか。
 古代ギリシアの数学者の逸話などから始まる。ピタゴラスとプラトンは外せない。しかし偉大な数学者としてはアルキメデスだ。それからガリレオだ。数学が自然に見事に適用されたのだ。また、数学の応用性を高めた一人として、デカルトの貢献のすばらしさが示される。ニュートンに至ると、宇宙の仕組みを数学で示したのだからスケールが違う。
 その他、統計や非ユークリッド幾何学、結び目の理論が後から自然に利用できると分かった経緯など、興味深い事柄がふんだんに盛り込まれた本となっている。
 ひとつの結論がないわけではないが、それよりも、広大な宇宙へまで考察する世界が広がっていき、多くの数学の歴史がうまく紹介される。そういう数学の歴史を垣間見るためにも、この本は悪くない。数学一般の教養を高めるためにも、ずいぶん役立つものであろう。
 なんだか難しくて、何をどうご紹介してよいか分からなくなってしまったが、比較的読みやすくて、面白い部分の多い、立派な読み物であった。分かりやすい説明としてもたいへん水準が高かったことを申しつけ加えておく。




Takapan
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