本

『説教 ガラテヤ人への手紙』

ホンとの本

『説教 ガラテヤ人への手紙』
小林和夫
日本ホーリネス教団出版局
\1800+
1998.9.

 小林和夫師の説教集は、もちろん全集としてもまとめられているが、元は単行本の形で教団から出されていた。いまは古書市場で出回るが、必ずしも安くなっているとは言えない。そんな中で、様子を窺いながら手が出せるものから入手する、というのが私のやり方である。
 しかし、ガラテヤ書は、ぜひ読みたかったものの一つである。
 これまで、ローマ書はある事情でハードカバーのものを昔に購入していたが、最近は第一コリント書のものを読んでいた。これらはパウロ書簡の中でも重厚な、内容の多いものである。そこへまた、福音とは何かということを説き明かすには、ガラテヤ書は短いけれども実はたいそう重要なものである。パウロ思想を読み解くのに、どうかすると中心分を占めているとすら理解できる。それは、、福音ならぬ律法規定が侵食してくる中で懸命に抵抗するパウロの姿が、真の福音とは何かを執拗にぶつけてくるものとして映るからである。
 果たしてこの福音の真髄を、小林師がどうメッセージしてくるか、楽しみであった。
 連続講解説教となるから、どうしても、同じ主眼の中で語り続けられる。ガラテヤ書の中心テーマははっきりしているから、それを説教の冒頭で毎度繰り返しながら、それから改めてその回の聖書箇所に入っていくという構成のものが多い。そしてこれを読む私たちのほうも、一つのことが幾度も告げられることで、福音の中心を外すことなく知ることができるのである。つまり、この本を通じて、出会うキリストのイメージというのが実に明確に浮かび上がってくるのである。
 律法によって救われる。それは旧いファリサイ派の誤解だし、分かっていないのだ、しかしキリストの贖いを知っている私たちは、そんなものに騙されやしない、愚かなことだ。そんなふうに油断しているクリスチャンが多いのではないか。もちろん私自身もその一人ではないか、という危惧を抱いている。ファリサイ派は今もいるし、律法主義者はいくらでもいる、と見なすのだ。恵みのみ、信仰のみ、などと口では言うけれど、神にお返しをしなければならないとか、やっぱりこのようにしなければ教会には行けないとか考えている人はいる。また、そのように考えてしまう時が誰にでもありうる。ただで与えられるという理論に対して、それだけではないよ、という感覚を、肉の人間はなかなか棄てられないのだ。また、それ故にまた他人にその考え方を強いるのだ。
 まさか、お思いだろうか。私の見立てでは、これは蔓延している。だからこそ、他人の罪が許せないのだ。あんなことをしていては救われないなどという目で見るし、時に目くじらを立てて猛然と反対派を非難するのだ。日本社会においてキリスト者や教会が、ごくごく少数派であるにも拘わらず、その少数派の中で互いにわずかな意見の差異を大きく扱って、攻撃しあい、ひとつになど到底なれない論戦を以て悪口を言い合う様の、どこに、恵みのみで救われるなどという生き方ができているというのだろうか。
 説教はこの恵みを繰り返し告げる。そして、その根底に、十字架を掲げる。十字架がどれほどの力をもっているか、それを知らないから、互いにあげつらうようなことをしているのだ。この信仰のみ、恵みのみという深みへの旅は、十字架に生きること、十字架のキリストが自分の中に生きており、自分はすでに死んでいるということを明らかにする。この一連のまとまりが、ガラテヤ書を重大な福音の書簡としていると言えるであろう。
 小林師の生い立ちや信仰への証しなどが盛り込まれていたのは興味深かった。ほかではあまり聞かないことだったのであるが、説教者はきっとあちこちでこうした証しをしていることだろう。その証しがなければ、説教者ではない。それのできない説教者は、語る資格がない。いつもいつもそれを持ち出す必要はないが、どこかできちんと語っておかないと、キリストと出会ったという感覚を会衆と共有できないであろう。
 そうした意味でも、この説教集は、宝石のように、福音の中に輝くことができるものであるだろう。




Takapan
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