本

『エウセビオス 教会史(上)(下)』

ホンとの本

『エウセビオス 教会史(上)(下)』
秦剛平訳
講談社学術文庫
\1470+\1523
2010.11-12.

 上下二分冊である。紹介の仕方も変則的となった。
 定評ある、講談社学術文庫である。文献資料的にも申し分のないシリーズである。たんなる思いつきだけでここにラインナップされるようなものではない。ハードカバーで一冊五千円も一万円もするような出版の仕方がかつては当たり前であったが、学術的に価値のある文献が、文庫としてはやや高価ではあるものの、千円レベルで入手できるというのは、非常にありがたいものである。
 この本もかつては、山本書店から大きな本で出版されていた。1986-88年のころだという。よほどの研究者や神学者でなければ、手にはしなかったことだろう。それが、市井の人間にも手に入る。これは喜ばしいことである。
 インターネットにおいてはもっと容易に入手できるではないか、と思われるかもしれないが、これだけの内容のものは、そうはいかない。
 さて、このエウセビオスは、人としては謎の多い人物である。三世紀、キリスト教がローマ帝国において公認された時代を生きている。それ故に、迫害時代に隠れていた資料も集められることが可能になったことだろう。そして、聖なる諸書が、ひとつの書物、新約聖書として集められていく。その取捨選択に大きく関わった人物の一人であるとされている。
 が、エウセビオスの価値は、やはりこの「教会史」にある。かつてユダヤ人ヨセフスが、ユダヤ人の歴史について、キリストの時代を含めて克明に記録したことが、キリスト教を含めて歴史の上で非常に重大な意味をもったのであるが、それはローマ帝国側の視点として記録されたものでもあった。エウセビオスは、教会の司教であった。教会サイドから見た教会の歴史がここにある。その意味が、また大きい。
 教会に伝わるエピソードを、これほどの規模で集めた記録はほかにない。それだけでも、重要性は最高度に上がるのだが、考えてみれば、これを一つの権威ある伝統として、その後の教会、現代の教会の信仰や伝統が成立しているとすれば、恐いことである。私たちは聖書を規準として、信仰を抱いていると思っている。だが、その聖書を一定の人がまとめ、解釈し、それにまつわる人々の歴史を紹介しているのを見て、それを頼りにしているとすれば、果たして聖書のみを信じていると言えるのかどうか、そこまで疑うことが可能ではないだろうか。
 しかしながら、信仰の先達の生き方を、その時代と共に見るのは、私たちにとって有益とすることが十分可能であり、必要であることかとは思う。いったい、あれだけの迫害と危険の中で、信仰を貫いたというのは、どういうことであろうか。あまりにも生ぬるい生活の中で、信仰がない、などと嘆いている場合ではないのかもしれない。信仰するということが、つねに命がけであるのが当たり前であった生き方は、今の世の中では考えにくいかもしれないが、他国ではそういう環境にある場合も少なくないのであって、他人事だと見過ごしてよいとは思えない。昔の人のために祈るというのは奇妙なことであろうが、せめて今の時代に、このエウセビオスの時代と重なるような危険の中で信仰の戦いを貫いている人々のために祈ることくらいは、必要なのではないだろうか。
 エウセビオス自身、当時異端とされたアリウス派への同情的態度などから、後世弾かれた経緯があるとのことで、この書物も場合によっては闇に消された可能性さえあったかもしれないが、古き人々の信仰の記録を私たちがこのようにして見ることができるというのは、ありがたいことである。しかも、ギリシア語原典についてを含め、実に丁寧な訳注が膨大な頁を割いて掲載されているのは、すばらしい。注釈など必要ない、と読み物として読む方もいらっしゃるかもしれないが、これはやはり文献として必要なことである。訳者の苦労を鑑みるとともに、著者本人の息吹を受けるような気持ちになれるのもうれしいものだ。
 ともあれ、私たちの信仰生活に緊張を与える本である。なかなか手が伸びにくい内容であるかもしれないが、聖書を開いて語る機会のあるような方は、一読しないではいられない本であろうかと思う。




Takapan
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