本

『神の支配から王の支配へ』

ホンとの本

『神の支配から王の支配へ』
秦剛平
京都大学学術出版会
\2100
2012.12.

 秦剛平という人については、私はよく分からない。多くの著書があり、立派な業績を出している。本も売れ筋であり、信奉者も少なくない。ギリシア語についての知識と仕事は膨大なものであり、特に初期キリスト教とその周辺の文化については誰よりも多くのことを知っているようにも見える。
 キリスト教出版社も、それだけの仕事をしているので大切に扱っているようでもあるのだが、どうも本人が言い放っていることはかなり乱暴な口調で、上から目線のようにも感じられる。
 今回、「ダビデとソロモンの時代」という副題のついた本を手にとってみた。これは、古代ローマの著述家でありユダヤ人でもあったヨセフスの描いた聖書物語を、現在の旧約聖書と細かく比較検討して読んでいくという目的のための本である。ただし、ここでは、ダビデとソロモンの時代に絞って取り扱っている。これだけでずいぶんな厚さの本となるのだ。もちろん、ダビデというからには、サウル王から始まることになるのだが、それはもう細かな、ヨセフスの扱いがどのように聖書と違うか、またそれは何故か、といったことを視野においた探究が、最初から最後まで続いているといえる。
 教義的なものが、学術的研究とは一線を画すものであることは、私にも分かる。しかし、宗教的理解が即座に護教だとして否定されてよいとも思わない。それこそ、偏見である。
 例えば、かつて大きな影響を与えキリスト教に刃を向けたかのようにも見えた、田川建三という人がいる。現在も活躍中であり、大きな仕事を継続中である。新約聖書についての徹底的な研究を続けていて、辛辣な評論でも知られている。キリスト教世界で翻訳されている聖書がいかにギリシア語について間違っているか、という点を明らかにすることに喜びを感じているかのような向きもあり、皮肉たっぷりに誤った聖書翻訳を嗤う。だが、彼はまた、聖書に書いてあることの真実性については、冷静で慎重であると私は感じる。むしろ、自由主義神学が、聖書の内容を全部否定しようとしている動きに対して警戒を示し、新約聖書の記録の中に一定の歴史的真実があることを擁護しようとさえしている場合がある。そしてその際、正しく根拠を示してそれを行っている。
 これに対して、秦剛平氏のほうはどうかというと、本人としてはやはり根拠はあるのかもしれないが、つらつらと読んでいく限り、何の根拠も示さず、ただ聖書の話は嘘っぱちなのだと高いところから「ふん」という口調で言い放ってどんどん進んでいくばかりなのである。どうせ作り話なのだから、という片づけ方で、せせら嗤うようにあらゆる記事をただの想像の話と決めつけていく点は、田川建三とも違う手法だと言える。読者は、この著者を、想像力に長けた学者と見るか、または、そもそも聖書にうさんくさいものを感じていた場合には、これぞ我が意を得たとでもいうように、声を合わせて聖書を馬鹿にするかの、どちらかになりそうである。
 聖書に触れ、キリストに出会うことのできなかった人が、聖書は嘘だということをなんとか正当化したいとき、この著者の言い方が、実に心に満足を与えてくれそうなのである。
 それにしても、この本がヨセフスの『ユダヤ古代誌』と聖書の比較だということは、しばらく読んでいかないと分からなかった。見ると裏表紙に、そのことが説明の最後に小さく記されている。これは本の売り方なのだろうか、とも思うが、分かりにくい。まるで聖書そのものを通じてダビデやソロモンについての研究がしてあるかのように見せておきながら、実のところヨセフスの誇張したユダヤ物語を嗤ったり、聖書は作り話だと一笑に付したりするばかりの内容となっているのだ。それも、適切な根拠をその都度示すということもないのだから、学術出版だと言えるのかどうかも分からない。何か、自分だけが真理をすべて知っていて、諸君は何も知らないだろうがこれが世界の真理なのだよ、と漏らしていくような書き方は、私は好まない。そして、このやり方が、今の時代の若い世代の一部にはたいへん快感となることも、私は懸念する。
 だから、とりあえずヨセフスの内容を比較したい研究者にとっては役立つものであるが、信仰を真面目に考える人には、求めるべきではない本である、とだけは言っておきたいと思う。




Takapan
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