本

『説教 十字架が語りかけるもの』

ホンとの本

『説教 十字架が語りかけるもの』
ケネス・リーチ
菊地伸二訳
聖公会出版
\1800+
2005.3.

 21世紀の十字架宣言。そういうサブタイトルが付いているが、現代はコリント書のひとつを用いているという。十字架のキリストを宣べ伝えている、という箇所である。まさに、それが実現された書である。6つの説教が載せられているが、どれも同じ空気の中を流れているので、多様なものを感じることはない。すべてが、十字架に焦点を当て、ブレのない話となっている。
 しかしまた、それは抽象的なものではないと思うし、たんに精神的な教えだというものではないように見える。読んでいて印象に残るのは、十字架が非常に政治的概念に包まれたものとして捉えられていることだ。
 もちろん、福音書の中のキリストの十字架刑は、極めて政治的なものであったはずだ。裁判という事態ももちろんそうなのだが、イエスのことばそのものが、政治的に受け取られ、判断された。また、それが分かっていながら、政治的に危うい発言を堂々と続けた。本書では、税と食べ物と神殿の問題が、イエスにとり決定的な運命を導いたと理解されている。そもそも十字架刑というのが、政治犯の色彩を帯びているが、イエスは自らの活動がその意味をもつことを知りながらも、敢えて不要な戦いをしなかったのだと見ているようであった。弟子たちにも、武器を以て戦うようには少しも促さない。「悪魔と彼らの土俵で戦うことが置く魔笛になる最高の道なのである」とまで著者は記している。
 これには私も深い体験がある。戦う場面から逃げるというのが、私のスタンスであったのだが、それでよかったのか、と振り返るのが常であった。声を荒げて議論したり、対抗したりすることを避けてきた。問題があれば、遁走するというあり方を繰り返してきた。それは、卑怯であるのではないか、とも思えた。また、自分だけの問題ではないのにそうするから、他の人がその分をひっかぶり、よけいに大変な苦労を強いられて戦わなければならなくなっていくことにもなり、それでよかったのかどうか、問い直すのが常であった。しかし、最近のことではあるが、戦わないことに意味を見出す説教をもらい、目が開かれたのであった。そして、本書がまた、イエスのそのような生き方を出してきた。
 非戦論というのがある。それは愛国心のない卑怯者のすることだ、という非難が当然のことのように世間にはある。それが、戦争を正当化する意見の持ち主の常なる作戦である。だが、ここのところ話題の映画「この世界の片隅に」が、人々の目を開かせている面があり、戦争というものは、次第に誰もが染められていく出来事であるということに気がつき始めた空気がある。まさに、その空気というものが、戦いを生み出していくし、破壊を正当化するし、ついには自分たちを破滅に追い込んでいくのである。有り体の非戦論だと、この空気の中に簡単に呑まれてしまうのではないか。ではおまえの家族が襲われたときにも、無抵抗でいられるのか、と問い詰められると、抵抗できなくなっていくのである。
 キリストの十字架は、その問いに対する決定的な結論を出しているといえる。神の国や神の愛とは何かを問いながら、そして他の文化では理解できなかったキリストの十字架の出来事に終始目を留めながら、私たちの魂が釘付けにされていくべきことを、飽きることなく繰り返すメッセージは、短いながらも迫力がある。100頁より少し多いくらいでサイズも小さな本としては高価とも思える価格が付けられているため、あまり手に取られることがないかもしれない。私は、とあるルートで新古書として格安で入手した。出版社にはすまないと思うが、せっかく出会う機会に恵まれたので、せいぜいその良さをお伝えできればと願っている。




Takapan
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