本

『日本史のなかのキリスト教』

ホンとの本

『日本史のなかのキリスト教』
長島総一郎
PHP新書834
\819
2012.11.

 日本史ときたから、大きく構えたものといえる。実のところ、これはカトリック史である。著者は、カトリックの信仰をお持ちの、経営コンサルタント。諸外国での生産技術指導などで活躍しておられ、講演や著作にお忙しい。ということで、これは専らカトリックの宣伝のような結果になってしまった。いわば、そこが惜しいところである。
 もとより、新書の中で一定のことを刻もうとすると、範囲としてはそのくらいに制限されてしまうことは仕方のないことであるだろう。そのことをとやかく言うつもりはないが、やはりタイトルそのものは、内容と違うという感覚を伴いかねない。
 内容は、カトリックの聖者たちであり、殉教の歴史でもある。それは日本史において、大きなウェイトを占める。それは確かである。だが、明治期以降のプロテスタントなどの流入と、また、ザビエル以前に入っていたであろうキリスト教の影響といった問題も、歴史を知る人にとっては興味深いテーマである。
 この本では、ザビエルからキリシタン大名、二六聖人と、さまざまな外国人神父の人となりが続き、そして明治期の、神父を含んだ日本人の短い伝記である。さらに幾多の外国人神父が紹介され、長崎原爆の永井博士が挙げられた後は、聖人クラスの有名人が記されている。
 そうして、殉教の問題を通じて、カトリックの愛が存分に語られる。そして、しきりに、カトリックが世界最大の宗教であることが強調される。
 最後に、カトリックの教義やミサについての解説が淡々と続いて終わる仕組みとなっている。
 これだけの小さな本の中に、カトリックのエッセンスが分かりやすく詰められているという印象はある。それだけでも、この本に意義があるというものだろう。もちろん、プロテスタント側からの著作において、カトリックについて触れることが少ないのも事実である。それは、実際カトリックのことを知らないというからである場合が多く、カトリックとの対決を意識したものは、案外少ない。いわばこれはプロテスタント側の不勉強によるものであるとも言える。
 この本の著者にも、そういうところがあるのかもしれない。だから逆に、プロテスタントの事柄について、書くことができないのだ、という事情があるのかもしれない。
 それにしても、この殉教や聖人のオンパレードには、私などは、ついていけないか、あるいはどうかすると、本当に何かのパレードを沿道から見ている気分にさえなってくる。日頃知らないこともあるから、面白く拝見させていただき、また勉強させていただいた気分でもある。
 だが、だんだんと、このカトリック一辺倒は、プロテスタントについて知らないから仕方なくそのように書いているというよりも、著者は人一倍、プロテスタントについて知っているのではないか、とも思えるようになった。その上で、ひたすら、キリスト教というのは、カトリックしかないのだ、という主張を続けているように見えてきたのだ。
 誤解かもしれないが、たぶん間違っていないと思う。そもそもカトリック以外はキリスト教でないのだから、本のタイトルも、「キリスト教」でよいのだ。プロテスタントに言及した場面が皆無であるわけではないのだが、実際無きに等しいと言える。そのように、確信犯としてのタイトルであるのだと理解するので、このタイトルについてとやかく言うのもやはり野暮なのだろう、と思う。最後に、カトリックとは「普遍」の意味であると告げ、ご丁寧に傍点まで打っている。「キリスト教」として、何も突拍子もないことを叫んでいるわけではないのだから、殉教や愛を語るにだんだんエスカレートしていくこの雰囲気が、読者からしだいに浮いていってしまっていることに、気づかれたらよかったのに、と思う。命を捨てた多くの先人のことを並べて、褒め称えれば褒め称えるほど、そういう自分はどうなのか、とツッコミたくなるのが、世の常だからである。




Takapan
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