本

『私の中のキリスト』

ホンとの本

『私の中のキリスト』
井上洋治
主婦の友社
\1800+
1990.12.

 古書店で購入。1978年の初版が新たな版となったものを私が購入したらしい。
 カトリック司祭として多くの著作を遺し、2014年に亡くなった方である。カトリックの方は、信仰的には教会の言うとおりという印象があり、独自の信仰を表に出すということは難しいように思われているかもしれないが、文学など文化面にはたいへんオープンな部分があるし、とくにこの半世紀ほどは、カトリック組織の考え方の変化もあり、かなり自由な発言も見られるようになってきた。司祭という立場でありながら、自分の解釈を表に出すということも珍しくなくなってきたが、やはりこの方の頃には今よりも勇気が必要だったことだろう。日本文化の中には日本文化の福音というものがあることを見抜き、それに注目するように提唱していく部分があったように見える。
 今回の本はその初期のものといえ、しかし齢50を数える頃の本である。この前に『日本とイエスの顔』という著作があり、これをより読みやすい形にしたような本であると本書の中で紹介されている。
 実に、読み物として読みやすい。まずは旅行記のような書き出しで始まり、そもそも冒頭には旅行の風景のような美しいカラー写真が並んでいる。そうして、聖書の文化を語るように移行していくものだから、自然に読者は聖書についてたくさんの知識を得ることになる。恰も講義調に説明されているのではなく、エッセイとして読みやすく綴られているわけで、だがそれでいて、読んでいくだけで、聖書の背景知識がふんだんに取り入れられていくのだから、その文章力というか、文才というか、魅力がある。読むだけで福音を語り、伝えているという印象である。
 テーマとしては、著者自身の聖書観、キリスト観がまず掲げられる。それは、ヨハネ8章の、姦淫の女の場面である。ここでイエスの赦しの眼差しを表に出しつつ、聖書全体に響き渡るもの、貫かれているものとして何を軸として読んでいきたいか、が紹介される。結局これが貫かれて最後まで続くのであるから、読者はある意味で安心する。ひとつ最初に立場を受け容れさえすれば、最後までまっすぐに読んでいけるのである。
 しかし、普通の聖書の紹介とは若干違った色合いもあるので、一定の信仰をもっている人が読む分にはよいが、まだ信仰の筋道のついていない人が読み、このまま信じていくと、通例の福音が違ったものに感じられる可能性もないわけではない。とくに後半、「余白」というキーワードで福音理解が進められていくのだが、それはたしかに私たちの文化の中で包み込みやすい説明であるかもしれないけれども、若干聖書のとおりではない方向に出て行く危険性を伴っている。もちろん、聖書の解釈は様々であってよいのかもしれないが、ひとつには、聖書のオーソドックスな理解の道は心に刻んでおいてよい。だから、復活のイエスについて独自の理解をしている部分を標準としてしまうと、他の場合に違和感を覚えることになりかねないと思うのである。
 だが、一定の信仰をもつ人が読むには、実に楽しめるエッセイである。著者はそのように理解しているのだな、という目で見ることができる人にとっては、様々な知恵を伴った、ひとりの人の人生が語られていて、味わうことには問題がない。また、これもカトリックの方の文章によくあるのだが、形式的な祈りや聖書通読などがある反面、その背後にたくさんイメージを掲げながらその言葉を口にしているようなものではないかと思われるほどに、自分の理解を語るときのイメージを描く様子が楽しくて仕方がない。いわば私たち読者も、霊的に味わえるのである。そうか、この言葉の背景にはこのような風景があると想像しながら読んでいくと馴染めるのだな、などという具合である。
 聖書が書かれた時代と場面への黙想も豊かである。今ここにいる私たちの立場からしか見えないのではない。当時の人がどういう気持でこの文章を書いたか、そんな気持ちに寄り添うことは、私は有意義であると思う。そんなヒントも、この司祭が惜しみなく私たちに提供してくれている。入手しにくいかもしれないが、機会があったら、手にとってみると、しばらく楽しめること請け合いである。




Takapan
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