本

『キリスト教新講』

ホンとの本

『キリスト教新講』
由木康
中公新書383
\360+
1975.1.

 恐ろしく古い本であり、このコーナーの基本姿勢に背くのであるが、よいものについてはお届けする義務があると考え、扱ってみることにした。2016年初夏現在、Amazonで8点在庫があり、安ければ300円くらいで入手できる。私は古書店の店頭で250円で入手した。
 由木康という名を聞いてぴんと来ないクリスチャンは、よほど新しい世代か、讃美歌に関心がないかと言われても仕方がない。もう60年前になるが、『讃美歌』の改定に関わり(実はその前の80年前のほうがより中心的であった)、「まぶねのなかに」の作者だと聞けば、誰でも親しみが湧くことだろう。「きよしこの夜」の訳者でもあると聞けば、世間一般も黙ってはいまい。このように多くの賛美歌をつくったが、牧師でもあった。日本のキリスト教音楽に対する貢献についてはいくら大きく扱っても足りないほどである。
 この人の神学については、知る人ぞ知るというところなのだろうが、現代の神学と自分の信仰との間にかなりの悩みを抱いたそうである。19世紀末に生まれ90歳まで生きた人であるから、ちょうどリベラルな思想が展開した頃と活動時期が重なっている。新たな神学の登場に背を向けることもできなかったのだ。
 また、哲学関係から見れば、パスカルの研究者としても一流の人である。これはたんなる趣味などというレベルではなく、『パンセ』の翻訳者としても有名であるから、一流の研究者である。
 さて、副題は「イエスから現代神学へ」とあるが、漠然としているように見えて、なかなか本書の内容をコンパクトに表していると読了後に感心する。中公新書であるし、帯にも書いてあるが、確かに「入門書」である。しかし、丁寧に構成されており、叙述されている。「まえがき」において、いきなり「この書は、小著ではあるが、内から込み上げてくるものを抑えながら書いた本である」と告白している。1975年当時ではあるが、新たな研究成果を盛り込み、それでいて、歴史的に考察したキリスト教概論として見事なまとめ方である。学術的な書き方ではないため、一般読者のアプローチの要求に十分応え得るものとなっている。そして同じ「まえがき」で、どうぞ通読をしてほしいと願っている。読んでみて、その訳が分かったような気がした。話が滑らかに続いているし、その流れが理解を助けるのである。キリスト教の歴史について、淀みなく綴るその言葉は、その順で全部読んでこそ、迫ってくるというものだ。
 キリスト教は歴史的宗教であると言われる。誰かのひらめきや悟りを文章にして信じろと言ったのではない。歴史の中に現れたイエスという存在にまつわる、現実の事件としての宗教である。こうした点にも一つひとつ丁寧に対応し、キリスト教に対する誤解をできるだけ廃しようとしている姿勢もよく伝わってくる。また、イエスは歴史的にほんとうに存在したのか、という議論も一時逞しく世を騒がせたのだが、こうした現実的な問題についても触れられ、コメントされる。それは今読んでもリズムよく完結で、的を射た説明となっている。
 もちろん、解釈的に、時代の色が強い場合もある。だが、誠実にキリスト教の歴史を綴る人の理解は、いつ読んでも何かしら魂を揺さぶるようなものがあり、聖書に対する目を開かせてくれると言っても過言ではない。とくに私なら、最近考えていたある原稿のために、イエスが「非人間化からの解放」をなしたのだというところには、思わず膝を打ったほどである。これは使わせて戴こう、そう、そのように私も言いたかったのだ、と喜んだ。
 こうしたイエス像を紹介した後に、原始教会からパウロ、そして教父時代と中世、その後宗教改革から20世紀の状況を漏らさず語る。詳細に言えばまだ他に触れるべき人物や思想があるのだろうが、著者がこのストーリーでよしとした路線だけで、十分辻褄の合う、首尾一貫した論が流れ続いていることは、すぐに分かる。
 キリスト教の歴史のコンパクトなまとめとして、何かとチェックに利用することもできよう。由木先生の息吹が伝わってくる、好著である。因みに、タイトルは声に出して読むと「信仰」になることを考えて付けたのかと想像しているが、どうなんだろう。




Takapan
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