本

『キリスト教の歴史 増補新版』

ホンとの本

『キリスト教の歴史 増補新版』
斎藤正彦
新教出版社
\798
2011.10.

 1966年に最初の版が出ている。
 これは、まさに教科書である。中を開くと、高校の歴史の教科書を思い出すものがある。ただ違うのは、キリスト教関係の歴史に限定していることである。従って、さほど厚いものではないが、それでも140頁余りあるから、そう簡単には読めない。いや、教科書であるからこそ、記述は至って簡潔である。くどくど筆者の意見や論証をするようなことはない。事例や喩えに凝って論を膨らませたり、誰かを批判したりする余地もない。淡々と、実に淡々と記述されていく。従って、中身はかなり濃いのだ。
 もし筆者の考えがはっきり分かるのはどこかと問われれば、やはりそれは「はじめに」であろうし、増補の説明をした「あとがき」
 必ずしもすべてが分かりやすいとは限らない。ある程度の歴史の知識が必要になると思われる部分もないわけではない。しかし、さすが40年もの間、神学校で使われてきただけのことはある。必要なことが網羅されている点はすばらしい。
 歴史は、必ずしも詳細な本が学習に適切であるとは限らない。もちろん関心のあるところや、予備知識の豊富なところについては、いくら詳細な知識があっても構わないのだが、そもそも知識のない分野においてそれを知識として会得するには、当初は内容の柱となるいくつかの知識や前提が必要になるだけである。まず大枠を理解する。そして、その筋道の後で、細かな点に少しずつ入っていくのだ。それは、ちょうど「あたり」をつけてから下書きを始め、ついには細かく書き込んでいくイラストや絵のやり方と同じである。
 ともすればマニアックな部分に拘泥し、肝腎の基本や本質を見落としてしまい、概観の視点をなくしてしまいがちな、人間という生き物である。それは、聖書の解釈においてまま見られるものである。神学議論に走ると、勝ちたい思いや、あるいは自分の理解こそが唯一絶対であるかのように考えてしまうようになり、ついには相手を力でねじ伏せるような営みに走る。それが場合によってはキリスト教の歴史であったと言えるかもしれない。さらには時の権力の中で別の目的のために信仰という事柄を利用するようにすらなっているとも考えられる。
 まずはできるかぎり恣意的でない、客観的な歴史叙述が要請させるわけだ。いったいこれまでに何が起こったのか。それをさしあたり一連の原因や出来事の中で位置づけて理解する試みが必要なのだ。その意味で、この本はやはり類書のない役割を果たしているように見える。
 しかしながら、そこには信仰者としての思いも溢れている。人間の手による、いわば曲がった歴史の展開を、神の摂理として説明する個所がいくつかある。キリスト教の歴史の誤りとも言える部分を正視した上で、それだからこそ後の歴史の中で神の国に近づく営みが生じることになった、という歴史観である。これは、必ずしも客観的に起こった歴史ではない。背後に神の計画を見る信仰の眼である。それをも含んだものとして受け止めるのならば、この本は何の抵抗もなく読めるであろう。学術のためでなく、信仰のために学びたい場合には、必携のものであるとさえ言いたいほどである。
 新版は、これまでのものよりも価格が抑えられているという。これもまた、ありがたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system