本

『最初期キリスト教思想の軌跡』

ホンとの本

『最初期キリスト教思想の軌跡』
青野太潮
新教出版社
\6000+
2013.3.

 福岡の教会で協力牧師を務める著者は、西南学院大学を定年退官することになったことを機に、であると思うが、ライフワークとも言える初期のキリスト教思想についての論文を一冊の形にした。それが本書であり、800頁を大きく上回る大著となっている。
 2009年より日本新約学会の会長をも務め、日本の新約聖書研究をリードしてきた。研究者というものは、必ずしも会衆にお決まりのメッセージをするのが仕事だとは言えない。皆が言っていることを同じように話しても、それは学者としての業績とは言えない。誰もが気づいていないこと、だが確かにそこに発見されるべきものとして存在しているものを見出すべきである。また、事実の中に潜む新たな関係を指摘し、埋もれていた資料を活かすことも求められる。まことに苛酷な仕事である。本書には、従来誰も気づいていなかったような、あるいは誰もが見捨てていたような点が、たくさん詰まっている。それの集大成のようなものであるから、読むほうもその格闘に寄り添い、共に格闘しなければならない。一日に読める量が限られているものだから、私は本書の読破に一カ月半を費やした。
 かつてはあまりに思い切った解釈についていけないと思うほどであったが、いくつかの著作に触れていくうちに、また、実際にその語りを聞くことによって、その論文や著作の文字の背後にある意図や思いというものを感じるようになった。すると不思議なことに、書かれた言葉が違った意味をもつように思えてくるのである。ちょうど、パウロが、手紙の中で過激な言い方をする中で、会ってみると気弱で頼りない男と見られているかもしれないが書くときには強く書くものだというような事情に触れていることと対応するようにさえ思う。その著者がまさにパウロを中心に研究を重ねてきたという点に、何かつながるものを感じるのは私だけだろうか。
 本書は、パウロだけには限らない。教父時代の思想へつながる流れ、聖書が編纂されていくありさまをも的確に捉え、その時代の中で理解された福音を指摘しようとしているように見える。
 ドイツ留学が研究の基本にあるため、ドイツの神学者に多くを学び、そのことが最初に紹介されているが、必ずしもそれは世辞を言うためではない。思想は思想、研究は研究なのであって、どのように事象に向かうかについては妥協せず、読者にとりたいへん親切な読み物となっている。こうした神学者の紹介は、そこと直に触れあえない読者にとり、ほんとうに助かることであるのだ。
 もちろん、十字架の神学が語られることは言うまでもない。ただ、一般向けの著書や講演集であれば、幾度も同じことが繰り返されがちであるのを、こうしたがっちりとした書となると、一度で語り終えるというスタイルになるため、著者をあまり知らない読者は注意をしなければならない。どこに重きを置いているのか、それが回数から分かるという情況ではないからだ。パウロがどう十字架を解したか、それを聖書の細かな表現の違いから受け取り、強く論じていくのが著者のスタイルであろうが、それを楽しみ味わいつつ読ませて戴いた。
 そのパウロに何らかの身体的障害があったのではないかというあたりは、ほんの軽くしか触れられないことなのだが、著者はまた、本書とは別のところで、障害者や災害について、一種の現代的神義論を論じるなどしている。そういう部分を知ると、こうした学問的研究には違いない一連のワークが、実はその信仰を物語るものであるということが伝わってくる。学問は客観的事実を研究するという思い込みに私たちは支配されているが、実は己の中の信仰をなんとか形にしようという営みである、とも言えるはずなのだ。時にその道を誤り、自らの信念を貫くために論理をねじ曲げてしまうという罠もあるもので、そのバランスや舵取りが難しいとも思うのだが、ともかく主体の中にある信というものが溢れる著作と対話あるいは対決するというのは気持ちがいい。また、それに少しでも向き合えるだけの信を私の中にも持ちたいものだと思わされるのであった。




Takapan
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