本

『チュウガクセイのキモチ』

ホンとの本

『チュウガクセイのキモチ』
あさのあつこ
小学館
\1200+
2008.1.

 中学生の気持ちが一番分かっているのではないかと思うオトナであるあさのあつこさん。絶大な支持を受けるその作品は、中高生世代の心をがっちり捉えている。
 でも、彼らにしてみれば、「おまえの気持ちは分かっているよ」と言われることがいちばん気に入らない。はっきり言って、ムカつく。オトナの枠で全部把握されている訳じゃないよという思いは、成長していく世代に必ず起こるものだし、オトナたちもそれが十分分かっているはずなのに、それを忘れてか、もはや別の生き物になってしまったのか、分かったような口を利くことになる。
 そこへ、この本が楔を打ち込む。とにかく、直に話を聞く。また、手紙を交換する。この構造がいい。また、6人の中学生を招いての座談会もあり、多角的に、中学生と交わっている。必ずしも、まとまった練り上げたレポートではないかもしれないが、そのときに心にあったこと、ふだん思っていたことが、飾らずに出てきていると思うし、そこに価値があるのではないかとも思う。
 礼儀正しい交わりであった。もっと、外れて叫ぶしかないような中学生や、言おうとしても言えないものがあるという中学生も、世の中にはたくさんいるだろう。その点では、まだ言いたいことが適切に言えるタイプの中学生ばかりであるかもしれない。けれども、確かな息吹がそこにある。
 山古志の中学生は、地震の被害を受けて、そこから歩き始めようとしていた。俳優は、また特別な立場にいる中学生でもあったが、命救われた生い立ちから、見える景色を語ってくれた。座談会では、ハーフや海外経験から、伝わらないこと、伝えたいことを考えさせる発言が心に残った。
 やはり、「伝える」ことに関心が向いていくようでもあった。人が人として、人の中に生きていくということは、そういうことであるのかもしれない。自分が単独で何か悟りを開いて孤独な喜びで生きていく、といったスタイルを人は求めているのではないらしい。誰かとつながっている、つながらなければならない、しかし、そのとき人のことをどう理解するか、自分をどう理解してもらうか、そこが大きい意味をもつのだ。教室という狭い社会の中で、小学生時代から、誰しもそれを経験している。つまりは、その逃れられない状況の中だからこそ、いじめも生じる。自分を伝えられないことは、不利な立場にも追い込むことになるかもしれないし、切実な問題なのである。
 あさのあつこさんは、最後に自分だけの呟きを載せてくれている。作家として当然のことであるかもしれないが、これで本書もひとつの締まりを得る。もちろん、それはお説教臭いものではない。だが、文章という形でひとつのヒントが与えられるのではないかという可能性をも示唆するように見える。ご本人にとってみれば、やはり「書くこと」が自分を作ってきたのだし、自分の人生を拓いてきたのだ。こういうことを見つけたからなのかもしれないが、そうでなくても、書くことは、自分を表すこと、伝えることのために大切なことだ。いまは呟きという形で好き勝手なことを言っているようなネット世界もあるが、それはよくよく見れば、買ってな呟きで終わってはいない。必ずつながりがある。その中で、時々、ほんとうに呟くだけで誰をも気にしていないような人を見るが、それはきっと大きな勘違いをしていると思う。そのとんでもない勘違いに気づかないほどに、その人は孤独であり、裸の王様であるわけである。
 チュウガクセイの子がいる親世代は、一読すると世界が変わって見えるかもしれない。子どもたちの心の中の世界を、大切なものとして尊重すべきことを学ぶかもしれない。どんなに、いつも大切にしていますよ、と自負していた人も、逆にそれだからこそ、目が開かれるのではないかという気がする。貴重な本である。
 ちなみに、シンプルだがその表紙が、実にいい。




Takapan
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