本

『聖書の読み方』

ホンとの本

『聖書の読み方』
大貫隆
岩波新書1233
\756
2010.2

 岩波は、属に「岩波訳」と呼ばれる聖書を刊行した。他にも、聖書に関する著作を多くラインナップし、ちょっとしたキリスト教のリバイバルが起こっているようにも見える。学術的な方面から、独自の聖書理解と聖書翻訳を実行したわけで、その訳者の数々と共に、多くの出版に貢献しているというわけである。
 その評価はいろいろあるだろう。教会関係には、あまり歓迎されていないようでもある。信仰の面を優先せず、あまりにも学術的に事がなされており、ひとつの仮説を恰も真実のように取り扱って、聖書を切り刻んでいるのも事実である。また、田川建三氏のように、岩波の新約聖書は、ギリシア語を知らなさすぎると酷評する人もいる。確かに、これまで見られなかった突飛な日本語が多いわけだが、ギリシア語的理解からしても、間違いとしか言いようのないものがあるのかもしれない。
 それはともかく、そうしたスタッフの一人が、ハードカバーの高価な本でなく、こうしたいわば万人向けの新書という形態で、聖書文化の浸透のために書物を世に呈してくれるというのは、有難いことだ。それも、なかなかこれまでなかった視点で、そして聖書を開いてみようとする人にとって納得できるようなところから誘導してくれるというのは、実に貴重な試みである。
 というのも、聖書はいかに楽しいか、ではなくて、聖書はいかに読みにくいか、というところから始まるからである。そのための原因がいくつかの内容に絞られ、そのひとつひとつに答えていくのがこの新書の使命である。それは、大学教授という利点を活かして、学生にアンケートをとり、素朴に聖書の難しさやとっつきにくさについて尋ねた声を集めて、それを拠り所にして始まるということである。
 これは、キリストが高いところから人のところにまで降りてきたことにも喩えられている。キリスト教世界に生きる者は、聖書を伝えようとするならば、降りて行くことも必要なのだ、と訴える。これを、本の中では、「電車を降りる」という譬えで示している。こうした譬えもまた、キリストばりでありなかなか面白い。
 時に、聖書に関してはひとつの仮説を決定した真理であるかのように語るきらいは、岩波の一員としてあるように見受けられるが、クリスチャンたちに与える影響は小さくないと見た。いや、確かにそうでなければならない、と肯くところも多いだろう。自分の読み方が正しい、と思う一方、いきなりそれを突きつけられた他者がキリスト教を受け容れるかというと、そんなことはないのだ。それは、自分がかつてどこから来たかについて考えてみるだけでもいい。もしかつての自分が、今の自分が勧めるように聖書を薦め信仰に誘ったとしたら、乗ってきただろうか。私はたぶんノーだろう。
 私は個人的に、キリストと人格的に出会うことによって初めて、聖書の背景が自分の背景となっていくものだと考えているが、それさえも絶対のものとは限らない。聖書文化に興味をもつ人は少なくない。それが外国のものだという誤解を解くだけでも大変なのだが、それよりもまた、聖書をどう読んでいくとよいのか、その点を示唆するこのような新しい視点に立った本は貴重である。
 むしろ、クリスチャンこそ、読まなければならないとさえ私は考える。そうすれば、自分がどうすればよいのか、そして自分の信仰とは何なのか、さらに地平が見えてくるに違いないと思うのだ。
 最後に、この本には、聖書学者たる著者の「証詞」が載っている。どうやって神と出会ったのか、聖書が自分のための言葉であることをどうやって知ったか、その体験が語られている。私はこれが必要だと思う。この体験のない聖書学者や牧師は、無意味である。それは、卵の入っていない卵焼きのようなものだ。聖書とのそのような出会いを、他の人々にも体験してほしいからこそ、この本はしたためられた。それでよいのだ。




Takapan
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