本

『聖書を取り戻す』

ホンとの本

『聖書を取り戻す』
C.E.ブラーテン・R.W.ジェンソン編
芳賀力訳
教文館
\2500+
1998.5.

 実のところ、かなり堅い内容である。論調も、論文という形で、多くの学者の見解が並んでいるふうであり、特に前半でその壁に読者は当たってしまうような気がする。ただ、途中でリズムが掴めたら、そして様子が呑み込めてきたら、読みやすくなるので、諦めずにしばらくつき合っていけばよいだろうと思う。
 基本的に、保守的な見解であり、聖書が歪められ、あるいは尊敬されなくなっていく時代の中で、聖書が再び生かされるようにするにはどうすればよいのか、突破口を探しているという印象を受ける。
 その意見は、もちろん人によって異なる。ただ傾向として、教会が聖書を生かすことをしなければ、世俗においても聖書が尊敬されていくようなことはないだろうという方向性は見られる。教会自身が、聖書を蔑ろにしている時代への警告である。
 世俗的にはもちろんのことだが、教会自身、聖書を聖書として読んでいないのではないだろうか、という問いかけは重要である。
 そこで、幾多の研究者の提言が並ぶ中、最後に、聖書と礼拝という核心的なテーマづけで、まとめられた言明がある。
 神の言葉は無益に働くことがないこと。
 神の言葉は、それを礼拝として受けとめる共同体の中で「書き下ろされる」こと。
 聖書と礼拝は分けられず結び合わされていること。
 この本のエッセンスを覚えつつ、自分と聖書との関係についてもまた思うことになる。ただ自分が聖書と出会って恵みを戴いたのでうれしい、それでよいのかどうか。共同体の中で聖書がどう読まれるのか、そこが一致していないと、共同体にならない。教会と言いつつ、それぞれが自分勝手な読み方をして、自分に引き寄せて、自分の器で読んだものがすべてのすべてだと断定するといった事態は、決定的にまずい。他人を裁くことのみならず、立つところが違うと、すべての話が実は噛み合わないからである。
 ルターのことば、「聖書は、その中にキリストが横たわる飼葉桶である」という言葉も紹介されているが、まさに「ことば」であるキリストを私たちが礼拝するのであるならば、聖書が真の意味で聖書として読まれるということは必然的で基本的なあり方であるはずなのに、それができていない、それが拒まれているということへの危機感、そこに何かしら同意できる魂であるならば、この本はあらゆる面で助けとなるだろう。
 本書内でも言う。「聖書のバビロン捕囚」が行われている、と。しかし神は解放する。約束のことばがあり、捕囚の状態から自由な解放が与えられる。聖書がいのちのことばとしてはたらくことを、著者たちと共に祈りたいと思う。




Takapan
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