本

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

ホンとの本

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』
池澤夏樹
小学館文庫
\649
2012.12.

 2009年に単行本として出版された本であり、いくらか話題になった。早くも文庫化である。私のような者にはありがたい。
 作家であり翻訳家として人気のある池澤夏樹氏が、古代イスラエルを中心とした聖書学者である秋吉輝雄氏と対談をする形で論が進んでいく。しかし、とりとめのない対談集とは違い、テーマに沿った、いわば計算された展開が形作られている。あるいは、そのように編集されている。だから、対談とは言いながら、通常の論文のような文章を見ているような気持ちにさえなってしまう。つまり、一定の知識を得たいと思う人にも、退屈させない内容となっている。しかも話し言葉であるから、すっと中身が入ってくる。
 一口コラムを集めたものではないから、あるテーマについては長く話が続く深く入っていくし、軽く流していくようなところもある。その辺りが、自然である。また、自然であるように、うまく編集されている。そのあたりの読みやすさや、読者の受け容れ方については、さすが作家、実に適切につくっているものだと驚く。
 著者自身、聖書に実に詳しい。そのあたりは、中に説明されているので、ことさらにここで取り上げないが、ただ、著者はいわゆる信徒ではない。そこに飛び込めないでいるというのだ。そうなると、クリスチャンとしては、ぜひ信仰を、といきたいところだが、まずはその知識と考察の深さに素直に耳を傾けたいと私は思った。また、結果的にそれでよかった。なにも、信仰しているから聖書について知っている、という道理はない。たくさん学ぶことができるならば、その機会は活かすべきである。そのことで、ますます聖書について深く感じ入ることができるならば、結構なことではないだろうか。ただ、世には有害な聖書論議が多い。信仰なしに聖書について蘊蓄を語ると、もはや自分自身が中心となり、いわば神としていることになり、まるで自分が創造主よりも格が上であるという態度をとるようになることがある。したり顔で聖書を語る中には、ごく一般の知識としては立派ではあるが、見るべきポイントを外しているような場合が多々ある。いわば、宝島の地理について事細かく知識をもちながら、肝腎の宝を一度も見たことがないようなものである。
 その点、著者は、自ら信仰者ではないと言いつつも、聖書について、信仰者のような立場を有しているように見える。つまり、聖書の語るその内容について尊敬を払っていることが、よく伝わってくるのである。だから、そうした人の知識にもっと耳を傾けてよい、と私は考えたのである。
 特にこの本では、ユダヤ人とイスラエルについて、通常の聖書注解書などでは味わえない、貴重な情報や研究結果がよく現れている。それは、秋吉氏の専門分野であるゆえでもある。しかしとにかく、聖書とは何かというようなことについて、きちんと説明をしながら論が展開し、それでも足りないときには本としてコラムが挟んであるので、非常に読みやすい。
 その話は、聖書そのものから、現代社会におけるイスラエルの姿とも関連して続けられる。これについては、最初のほうで明示されることが効いている。つまり、ヘブライ語に、現代人が考えるような時制の考え方が薄いために、聖書の歴史の物語が、たんに過去に終わったものではなく、現代にも同様に生きるものである自覚があるらしい、というベースである。現代社会を語るとき、パレスチナ問題などイスラエルに関する話題は、無視できない大きなものとなっている。そこに、二千年あるいはそれ以上昔のユダヤの文献が、あたかも今それが書かれてあるかのように、関係してくるわけである。
 対談は、それが行われたタイムリー的な話題としてだろうか、「ダ・ヴィンチ・コード」や「ユダの福音書」について触れたところで終わっている。特に後者については、非常に大きな危機的なエポックとして捉えているようなところが見られるが、事実上、そのような心配はその後なかったと言ってよいだろう。そのあたりが、私たちにとりやや過去形であるのだが、しかし解明されていく旧約聖書の基盤については、実に学びとなる内容をもっている。
 ただ、いわゆる福音信仰に立つ人からすれば、けしからん議論も中には多くあることは伝えておこう。もう、聖書を冷静に調べようとする声に対して、即座にそれは悪魔だ、聖書は何の誤りもなく……とステレオタイプに噛みついてくるタイプの考え方をする人には、この本は耐えられないかもしれない。しかし、私の目から見て、何も非常識な戯言を並べているという書物ではない。学術的な部分を取り入れていく姿勢を、私は持ちたいと思う。そして、この本は、その辺りのことで、十分な節度をもっていると思うのである。信仰者への敬意も、私は感じる。こうした、お互いに謙虚な姿勢が、それぞれに満足のいく向上をもたらすことができるのだと私は思う。
 少し学問的なことが言われたくらいで揺らぐような信仰であるならば、私はその人の信仰は弱いものだと言わざるをえない。というのは、もしも、信仰の周辺的な事柄についても、何かしら学術的証拠が見出された場合、その人は信仰を続けることができなくなってしまうからである。自らの信仰の深まりのために、多くの人を通じて与えられた学びを、活かしてもよいのではないか、という姿勢でありたい。
 どうぞ信仰の揺るがないタイプの方が、ますます生きる基盤を強くするために、役立つすばらしい聖書世界への案内である。
 ただし、秋吉氏が他界したことが、文庫本だけのあとがきのなかに載せられていて、私はせつなく感じたということは、付け加えておいてもよいかと思う。




Takapan
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