本

『聖書と理解』

ホンとの本

『聖書と理解』
上智大学キリスト教文化研究所編
あかし書房
\1500+
1978.1.

 これはまたたいそう古い本である。しかし、これが2016年に新たに復刊されたことで、それを読みたいと思った私が、ふと、待てよ、古書で手に入らないかなと思い、探したらあったということで、入手したという具合である。
 なんだかミーハー的な買い方であるが、ひとつには理由がある。復刊されるということは、これが現代に必要なものとして書店がぜひ読んでもらいたいという熱意を掲げたことを意味する。たとえ書かれた文章が一定の古い時代のものであったとしても、いま読むに値するものだと判断したのである。あるいは、それだけの販売見込みがあった、リクエストがあった、というようなことである。味わう価値があると私も思う。
 上智大学の学者の論文が集まっている。内容的に学問的であり堅い。本を読み慣れない人や、論文という形式になじみのない人には取っつきにくいかもしれない。しかし、その抽象的な言明の中に、行間に、多くの福音が詰まっている。
 ただ、学術的な理解ではある。当時力強かった自由主義神学がさも大前提のように扱われているようなところもあり、必ずしも現代の評価とは価値観が違うように見受けられるところも見られるようだ。しかしそうしてかつてはどうであったか、何を私たちは当たり前のものとして見てしまうものかどうか、そんなことも考えさせられる機会となるかもしれない。
 高柳先生は、「聖書理解と現代思想」という題でまず論じている。解釈学的な営みを、一般の人々に説くような書き方であるようにも見え、学者仲間だけの内輪話というわけではない。だからこそ、こうした出版に至ったのであろうとも推測される。ここには、史的イエスの問題が重要な話題として取り上げられている。今はまた別の考えや意見もあろう問題だが、ていねいに描かれており、学びとなる。バルトとブルトマンが神学世界の関心事であった時代の論文であると言えるが、さて、今の私たちはこれをどう乗り越え、あるいはどういう聖書理解の世界を生きているであろうか、問い直されるような思いがする。
 掘田先生は、「パウロの手紙を読む際の問題点」と題し、パウロ書簡を論理構造分析という手法で読もうとしている。それは、この方法を万全のものとして使うというよりも、その方法自体がどうであるのは批判的に扱うという丁寧さである。テキストを読み解くという営みは、これもまた解釈学的な流れの中にある。パウロは、自由に発想し言葉を駆使して巧みに書簡を綴っているけれども、そこには私たちが通常思う以上に徹底した論理思考が伴っているであろうと告げる。
 三好先生は「聖書翻訳に際しての文化に対する配慮」を述べ、いわゆる逐語訳と意訳との間の翻訳の揺れの問題を、幾多の実例を挙げながら論じ、様々な配慮を必要としながらも、意味内容を優先される必要のあることを提案している。文化があまりに違うので、言葉面だけで伝えることには限界があるはずなのである。これはいわば聖書翻訳の永遠の問題でもあり、この本が復刊された2016年には、『福音と世界』誌で、「聖書と翻訳」という特集が組まれていたときにも、やはり触れられることなった。2017年から2018年と思われるが、日本でも聖書の新たな翻訳が登場する。ただ、新改訳2017のほうは、パイロット版を見るかぎり、全面的改訂というわけではないらしい。が、実際に登場するのが楽しみではある。
 最後に高橋先生が「旧約と新約の有機的連続性」で「パレシア」というひとつの用語を鍵として、旧約と新約における用法を取り上げた。これは、言論の自由を意味する元来の用法から、大胆である様子や率直性を意味する言葉として変化した使われ方をしている。これを追いかけると、案外面白いのだ。ひとつの言葉に徹底していく、すぐれた学術手法である。旧約聖書を新約聖書は実現したのだという、私たちの信仰的な教条は、それはそれでよいが、はたしてテクストとしてそうであるのか、また、とくに書記のキリストの弟子たちや教会においてどう捉えられていたのか、これを改めて問い直す作業は重要である。
 こうして、カトリックという世界に制限する必要のない、プロテスタント側もぜひ傾聴した、ひとつの重要な軌跡がここにあるように思われる。復刊の意味もあるというものだ。味わいたい。




Takapan
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