本

『聖書考古学』

ホンとの本

『聖書考古学』
長谷川修一
中公新書2205
\882
2013.2.

 遺跡が語る史実。サブタイトルにそう記してある。まさにタイトル通り、考古学という立場に徹した、聖書にまつわる歴史の解明を目指す世界が描かれている。もちろん、この本で悉くそれを明らかにすることなどできない。新書という制約があるが、新書だからこそ、人の手に触れやすくなる。近年は、新書にしないと本は読んでもらえない、専門書は高価で読まれもしないので出版社自体が嫌う、という傾向がある。もはやそれが常識となってきている。その上で、聖書という話題になると、読者が限られてきそうなのでもあるが、しかし国際化時代にあって、聖書について何かしらの知識や背景を心得ておきたいというニーズがあるのも確かである。もはや信仰というレベルでなく、西洋文化の理解のために、あるいは中東との関わりがあるから、といったことからも、聖書の背景やその学術的調査について、関心があるという場合があることだろう。学的好奇心から知りたいという思いの方も、たぶんいることだろうから、案外このタイトルでこの価格と読みやすさとあっては、広く知られうるかもしれない。
 聖書は信仰の書であるとともに、歴史の書でもある。この宗教は、歴史の中に根ざした思想をもっており、たんに抽象的に人生の知恵を語るというようなものではない。歴史の中に足跡をもっており、また未来においても歴史として起こるという前提でその世界観がまとまっている。しかし、そこに書いてある歴史は果たして史実なのであろうか。当然、近代的な学術の発展の中から、そういう疑問が起こってくることになる。早い話が、創世記の世界創造は本当なのか、というところは、啓蒙された近現代の学者は、その妥当性について怪しまざるをえなくなる。その創造を直接知った人間はいないのだ。だから、これは神から預言者としてのモーセが与えられた物語であって、モーセの解釈が混じるものと言えるかもしれない。そのモーセがまた、いわゆる五書、あるいは律法と呼ばれる最初の部分を綴ったとされているが、近年この部分においては歴史的信頼性が薄いと言われる。創造自体が証拠のないものなら、イスラエルの父祖とされる族長たちの時代の記録も歴史的に信用がおけないのではないか、という具合である。
 しかし、そこがまた複雑で、中東の歴史は、古代の文明が確かに存在し、地名はもとより、聖書に記録されている文明的な足跡についても、他の遺跡や文書資料から、史実として認められ得るという調査がたくさん持ち上がっている。根拠なきおとぎ話では決してないのである。
 こうした点の発見は、考古学という分野が勃興したときに、聖書を信仰する人々から起こったといもいわれている。つまり、昔の遺跡が出てくると分かったとき、聖書に書かれてあることを、科学的に証拠立てるために、懸命に遺跡を探したのである。その成果として、各地で聖書の記述の事実性を裏付けるものが次々と発見されていった。
 だがこれで事が終わるわけではない。聖書の記述と、合わないものも現れ始めたのである。当初はそれさえも、なんとか聖書の正しさに基づいて説明しようとしたものだが、どうにも単純な聖書の記述と一致させることが難しい場面も起こってくるに至った。聖書は無謬であると信じる立場からは、依然として説明を捻ろうとしていくものであるが、他方、聖書について、その信仰を保ちつつも、柔軟に構える立場も現れた。少なくとも年代的な事柄については、聖書の数字をそのまま計算して済ませられるものではないかもしれない、というのである。
 こうした、聖書に関する考古学のこれまでの歩みや、考え方を、この本は初めのほうに説明してくれている。だから事情をあまりに知らない方にも十分この世界に入っていくことが可能だ。その上で、聖書の物語についても紹介してくれるから、かなりの聖書入門のようにもなっている。ただ、著者の専門性もあるのだろうが、実際考古学という範囲になると、新約聖書というよりも旧約聖書の内容との比較が中心となる。つまり古代オリエント史という範疇で、検討されていくことになる。そして事実上、この分野が肝腎なのだ。新約の時代はローマ帝国時代であり、かなりの部分で明らかになってきている。もちろん、当地はテルという独特の町の築かれ方があり、古い町の上に町を新たに立てていくわけで、エルサレムにおいて新約時代はすでに土の下、しかもそれを掘り起こすことは諸事情で無理とあっては、分からない部分も少なくない。キリストの十字架の場所でさえ、推定に過ぎないのである。だから、旧約時代となると、その史実性の検討も混じりつつ、場所や時代について明らかにしていくというのは、大変な労力と考察を必要とする研究となるのである。
 著者の態度は、聖書を無謬とする立場からすれば、邪道にも見えるものだろう。だから、大学での講義においても、背教的だという批判もあるという。こういう点は、著者のジレンマであるのかもしれない。しかし、著者はこうした点について、「まえがき」で述べている。「本書に書いた事柄は本当の信仰を強めこそすれ、弱めることはない、と信じている」と。もし、科学的に何かが分かることで聖書への信仰が潰れてしまうようであるならば、そこには実のところ薄い信仰しかないのかもしれない。数万年、数億年という時が過去にあったということさえ、すべて嘘だと背を向けるのは、たんなる意固地なへそ曲がりにしかならないのかもしれないのだ。このことは、なかなか伝わらないことがあるものだが、著者は予めその点を伝えて、現段階の考古学で分かっていることと、分かっていないことと、それから、推定でこうではないかと思われるということとを、説明の中で極力誤解のないように区別する注意を払いながら、本書を進めていく。私はそこに、確かな誠実さを感じる。著者はまた、この「まえがき」を、「真の信仰は必ずしも科学による証明を必要としない」と結んでいる。そして「あとがき」には、「信仰の有無を問わず、聖書に関心を持つ人が、そこに語られる「歴史」に興味を持ったとき、気軽に楽しく読めるようなものを目指して書いた」と記している。この気持ちは、確かに伝わってくる。私は、信仰を強められたグループに入ることができそうな気がする。




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