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『聖書を正しく読むために[総論]』

ホンとの本

『聖書を正しく読むために[総論]』
ゴードン.D.フィー・ダグラス.スチュワート
関野祐二監修・和光信一訳
いのちのことば社
\3400+
2014.12.

 果たして「正しく」聖書を読むことができるのかどうか。そのあたりから、怪しむ人が現れるかもしれない。「これが聖書の真実だ」と叫ぶ本が多々あり、少し慣れた人なら、これに騙されまいとして、予防線を張ることだろう。自分が新たな真理を発見した、これまではすべて嘘だ、そういきり立つ声は、まず間違いなく、従ってはならない対象である。もちろん、キリスト教に限らず、新興宗教に多いパターンである。宗教に対する理解や教育が薄いこの国にあっては、そういう免疫がなく、いとも簡単に騙されたり本を買ったりもするところがあるのだが、今回のこの日本語タイトルに対する反応はどうだろうか。
 どうやら、これは原題と少しニュアンスが違うように感じた。日本語にするのは私の能力では難しいが、聖書をその本来のあり方に添って語りたいという気持ちと、著者たちの、自分たちの意見であることを踏まえて言わせてもらうけれども、といった気持ちとが含まれているように私は感じた。
 正しい権威をこれで作ろうという意図は見られない。実際、内容も、何かしら強い偏った意見が述べられているようなふうでもなく、むしろ、こういう偏りを避けたほうがよい、という論調で終始綴られているように見えた。
 そう。喩えひとつにしても、聖書の喩えをそのまま文字通りに受け取る人はいないかもしれないが、果たしてそれが喩えであるのかどうか、その判断がつかない場合には、見て滑稽かもしれないけれども、聖書にある通りの命令を守らねばならない、ともがくようなことになる。だがまた、これは喩えに過ぎない、と軽視して、自分勝手に意味を理解しいて、いわば聖書を改造するようなことも、慎まなければならないであろう。そうなると、ますます聖書をどういう基準で受け止めていけばよいのか、私たちは自身をなくすことになってしまう。
 いや、自信などなくてもよいのだ。ただ、こういう道は避けよう、というアドバイスはあってもよい。著者たちは、読者の目をまず開かせる。聖書には女性の立場を低く見ていることが多く、また当時の文化からして女性にかくあれという命令すら描かれているが、これは現代社会にそのまま当てはめることが非常に難しいものである。しかし、それは現代では違うのだから、と安易に解釈して、それが当然だとしているが、そういう人々が、他方では聖書にこのように書いてあるのだから、と別のことで厳密に適用するというのは、どういうことなのだろうか。これは鋭い問いである。案外、自分の属するグループのリーダーの解釈に則り、聖書の中の言葉を、恣意的に改造したり文字通りに理解したりと私たちは使い分けている現実があるのである。
 こうした背景から著者たちは、聖書の釈義をまずするべきだと述べる。それを今の自分たちにとりどう扱うかという解釈は一旦抑えて、まずは聖書が当時の人々に対して告げた内容、当時の人々がその言葉から受け取ることができた意味合いといったものは何であったのか、それを捉えようとするところでまずは仕事をしなければならないのだ、と指摘する。自分に都合のよいような解釈を以て、聖書はこのように語っている、と定めるところに問題の根本があるのである。
 だから、この本は、釈義の大切さを語る。実は「各論」のバージョンがあり、邦訳でも準備がなされているとのことだが、この「総論」においても、見るところかなり具体的に、聖書各書の中での実例が多々扱われている。この具体性が、分かりやすくさせていることは間違いない。実際聖書のこの部分はこう理解されてよいだろうか、と問いかけるのである。
 すでに翻訳自体、ひとつの解釈の作品なのであり、それをテキストとすることで、解釈を土台にしているところがある点にも気をつけなければならない。実際しかし多くの人は翻訳を利用するしかないのだが、それでも、釈義に徹した良書が多々あるから、それらを参考にしてよいのだ、というふうな実際的なアドバイスも多い。ただ、最初から注釈書に頼るのではなく、まずは自分が直に聖書のところを声に出して読み、長い時間をかけてひとつひとつの言葉にも気を配りながら考える時間をもつことが第一であるということを外さない。いのちのことば社という、福音的な保守的立場の出版社から出されていることもあって、穏やかな聖書信仰がこの本に貫かれている。最初から、聖書をただの歴史書に過ぎないものだという目で見て決めていくとなると、実のところそのこと自体学問的配慮を欠いたことにもなりかねない。
 ただ、この本は学術書ではない。聖書から生きる知恵や命を受けようと願う人々に役立つような、聖書の読み方を指南するものである。その意味でも、「正しい読み方」というタイトルは、実は適切なのであって、私たち読者が最初から偏見をもつことのほうがまずかったのかもしれない。
 書簡・ナラティブな物語文・使徒の働き・福音書・たとえ話・律法・預言書・詩篇・知恵・黙示録と章立てをし、それぞれにおける読み方の注意が具体的に示される。ただ、やはり具体例とするには扱える場所が少ないために、たしかに「総論」になっているというのなら、そのとおりといえるだろう。巻末には、聖書各書についての、妥当な注解書も紹介されている。シンプルに挙げられているが、これだけでもこの本を私たちが手にする価値がある。書店や目録で見ても、どういう立場でどういう程度に書かれているのかが分からないが、このリストは、何か必要があって探すときに大変役立つはずである。また、そういう信頼をもつに値するだけの内容を、この本は有している。やや値は張るが、450頁余りに、学ぶべき多くの内容を含み、また、何かあったときにまた開くだけの魅力と実用性を有している。手元にあって損はない。
 訳者もまた誠実である。神学校のテキストとして用いていたという説明があるが、まさにそうだと思う。もし英語で原書を読める立場にある方には、Amazonの電子書籍で格安に手に入るので、お試しになるとよいかもしれない。もちろん、神学校だからと遠慮せず、一般信徒の方も、聖書をどのように読めばよいのか、また自分の読み方でよいのかどうか、多くのことを教示されるはずである。少なくとも聖書を、的外れすることなく読みたいという願いをもつ方には、万人に考えて戴きたい読み方がふんだんに散りばめられている。私はこれをお買い得だと思っている。また、「各論」も楽しみにしている。




Takapan
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