本

『聖書でたどる英語の歴史』

ホンとの本

『聖書でたどる英語の歴史』
寺澤盾
大修館書店
\2200+
2013.12.

 古い英語の形について少し本を読んだことがある。英語がそもそもどうしてこんなに分かりにくい語であるのか、知りたかったのだ。とにかくいろいろな外来語が混じり、読み方に定則がない。活用語尾も殆どとれてしまい、その分語順に制約が生まれている。語源もさまざまな方面から説明が必要で、多くの文化を踏まえている。言語としてはむしろ例外的な部類に入るように思われる。
 その歴史をたどるのに、この本は聖書を用いている。これは私にとり、恰好の手段である。著者はクリスチャンであり、きっと聖書の普及や理解を願ってのことでもあるだろう。だが、確かに聖書を題材にするというのは適切である。英語はその発生時から、聖書と関係がある。いや、ドイツ語などでもそうだが、聖書を記すために、言語が整備されていった経緯がある。聖書の翻訳は、古くはもちろんラテン語の権威の中に閉じ込められていた。だが、聖書が救いの書であるということは、また、エリートのみならず一般の人々の教育が求められるとあっては、それが日常言語に翻訳されることが必要であった。
 英語にあっては、やはり欽定訳が権威があるとされている。20世紀に様々な訳が出てきたが、ひとつの権威として、古さはあるが、今なお開かれるし、一般にもよく出回っている。日本語だと、文語訳というものに、郷愁ばかりでなく、事実格調と真実を見出す見方もあるわけだが、それといくらか似ている。しかし、さらに古い形の英語では、文字自体現代と異なる場合があり、語としてもかなり食い違いがある。また、文法上も違う側面があるし、語の意味も違う。この本は、聖書のある箇所において、これらの中英語から古英語までを比較して並べ、注釈を入れているのである。これ自体、貴重な指摘であると言えるだろう。
 それは、英語にのみ感心のある人にも興味がもてるものである。語義も、文法も、その説明は実に細かく、親切である。素人にも読めるが、おそらくかなり専門的な指摘が多いものであろう。こうしていくと、日本でも平安期の文に触れているかのようである。やはり千年という時間は、同じような言語の変化を招くらしい。たしかにギリシア語にしてもヘブル語にしても、変化を伴わないわけではない。だが、特にヘブル語にあっては、現代に蘇らせた背景もあるが、古い形が継続されているかのようである。聖書が二千年単位で動いていることの不思議さを思う。
 もちろん、英語という手段ではあっても、ここに挙げられた実例は、すべて聖書の文章である。聖書の内容の説明も多々あるし、また、聖書文化というものの解説がこれまた丁寧で分かりやすい。英語抜きにしても、聖書そのものの学習にも優れた題材となっていると思う。
 また、その比較される例文が並んだ後には、問題が出されている。ある語の歴史や背景、それが現代どう受け継がれているのか、など興味深い問題が出される。この解答が巻末に並べられている。いつの時代に今の文法の基盤ができたのか、たとえば現在進行形がいつどのように発生してきたのか、文献上の根拠をもとに解説される。これは英語学習者としても実に興味深いものだろう。また、様々な辞書やインターネットの資料の紹介もあり、至れり尽くせりである。
 また、これは聖書に限った情報ではあるのだが、最近の聖書の訳の傾向や考え方なども詳しく紹介されている。たとえば差別語への配慮や、男女の区別をなくす方向性である。これは一部は極端な試みであるように受け止められるかもしれないが、聖書で配慮させているということは、他の様々な分野でも同様であるという理解が可能だろう。ビジネスで英語を使うときにも、差別的な語を使うと信頼の問題ともなりうる。
 私は英語の研究書を知る者ではないし、英語の聖書についても深い理解があるわけではない。だが、そういう私に興味深く読め、しかも感動をもって本と過ごす時間が与えられたことは、他の人にもつながるものがあるだろうと思う。この価格でこうした体験ができたというのは、喜ばしいものであった。




Takapan
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