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『聖書信仰とその諸問題』

ホンとの本

『聖書信仰とその諸問題』
聖書神学舎教師会編
いのちのことば社
\2300+
2017.1.

 いわゆる福音主義の立場から、その生命線ともいえる「聖書信仰」について学び合ったときの記録のようである。そのときの原稿をまとめたものであり、10の論文的原稿が350頁にわたり収められている。
 一言で言えば、そういう本である。
 聖書について近代が批評学などの名前で、ずいぶんとメスを入れてきた。聖書学という観点からして、いまや常識となった観のあるいろいろな事態があるのだが、アメリカだったら原理主義と呼ばれるグループは、そのような研究を一切認めない。つまりは、聖書に書かれてあることは、一から十まですべて真理である、という路線を僅かでも崩さないというのである。百年あまり前のことであったら、それもひとつの生き方だとされていたのであろうが、聖書は一字一句すべて誤りがない、という言い方には、だんだんと抵抗ある人が増えてきている。いや、学問的には、もはやそれが当然の事実である。つまり、聖書に書かれてあることには互いに矛盾や齟齬があり、すべて書かれてあるままに歴史的にあったとは言えない、というのが現代的な常識となっている。創世の記述がその表現の通りにあったわけではない、という点を示すだけでも、現代人の殆どすべては肯くものであろう。
 だが、概念規定には慎重でなければならない。つまり、「誤りなき」というのがどういう意味であるのか、どういう内包を有しているのか、定義ないし規定の仕方によっては、案外その表現が適切に受け止められるという可能性は、やはりあると言わざるをえないからである。
 これもまた私のひとつの見方であるので、同じキリスト者でも、様々な意見があり、その論拠というのがある。それらが、8人(神学舎校長は3つの文章を載せている)それぞれに、微妙に異なることはありうる。論争というのは、その当該の言葉の概念規定そのものが一致しなければ不毛であるということがあり、同じ言葉で別々の事象を互いに理解していると、話が噛み合わないものである。ここではずばり「聖書信仰」とはそもそも何であるのか、それの捉え方により、説明する内容にも差異が生じることになると思われる。
 シカゴ声明という、世界の福音主義の考え方を提示するために1978年にまとめられたものがある。本書は、それを巻末に掲載し、それについてのコメントのような原稿も含まれている。これはいまなお、福音主義の主張の大きな砦となっている。
 但し、それがどう正しいのか、という点の説明の中に、時折難しい論理が走っているのを私は見る。聖書が正しくないとしたら神が正しくないことになってしまう、などという論理がたとえばそれである。しかしこれでは、コリント書におけるパウロの復活論のようで、信仰を述べたものにはなっていても、論理としては成立できない主張だということになる。この言明の前提としては、聖書は神が書いたということを前提として、つまり聖書は神のことばであるというところからスタートしているので、言うなればトートロジー的なのである。また、聖書という形でいま遺っているものが必要十分にその範囲であるという前提が何に根拠を置くのか、という点についても曖昧である。カトリック側が言うように、聖書というものを決めたのは教会であり、だから教会の伝統の一部が聖書であり、聖書が正しいならば教会が正しいということとなり、教会の伝統そのものに聖書に必ずしも劣らぬ真理の権威を与えることは正当である、という主張も、十分理由のある主張となるであろう。聖書を定めたのは神でなく人ではないのか、という点が突かれたら、人に権威を置いていることになりかねない。
 もちろん、ここに霊感という問題が関わってくる。霊感によって書かれたのなら、霊感によって編集されてもよいはずである。この霊感を神という主体によるものであり、神がそうさせた、というふうにするならば、なるほど説明はつく。
 このように、神学的には、たいへんデリケートで複雑な議論が成立する場面なのであるから、そう簡単に、聖書は誤りなき神の言葉であるという言明がどういう評価を受けるのか、定めることはできないであろう。それを、本書はとにかくひたすら、すべて真理であり誤りがない、ということをなんとか論証しようとしている立場であって、反対派との対峙もなければ対話もない。ほんとうは、それがあってこそ、実りのある議論となったのではないかと思われる。そうすると350頁ではすまないであろうが、しかし互いに論拠の弱いところが突かれるので、結果的に大きな進展になったのではないかと思われる。
 聖書について文献学的に取り上げる神学部など、悪魔の巣窟だと呼ぶグループがあったそうだが、いわばそのようなグループが一方的に主張しているというのが、本書の構成である。その論拠を知りたいという場合には、恰好の出版と認められるであろう。
 私の感想としては、私は聖書の分析を尊重するし、学的に調べたが故により明確に分かるということが少なくないので、学問的研究は大いにありがたいものだと考えている。ただ、聖書はそこから信仰と救いがもたらされ、読者ないし聴取者は、神と出会い、自分が変えられる経験をもつのでなければ意味がないと思う。福音主義と称しつつ、個人的なこの体験や信仰がないままに、この神学校を出て一人前だと自己義認して他人を裁いてはばからない、というような人がいないわけではないのである。聖書は、研究するためにあるのではない。研究した目的に、このような、人が神に出会う場面が置かれてこその聖書である。その聖書がいわば科学的に真理であるかどうか、という点が問題なのではないと考える。むしろ、聖書は何一つ誤りがない、と強弁するほうが脆いと私は思う。実は現代でもそうなのだが、将来的にでも、聖書のある部分が正しくはないということが明らかになったら、すべての論理が崩れ去るからである。喩えて言えば、自分はテストで満点を取るしかないと自他共に認める秀才がいるとする。つねに満点を取ってきたのであるが、あるとき満点に1点足りないミスを犯した。この秀才は、満点でなければ自分の存在価値はないと絶望してしまうというような図式である。
 それよりも、聖書にいわゆる誤りがあったとしても、それがどうした、自分はこの聖書という場において神と出会い救われたんだ、ハレルヤ、と喜んでいる信仰生活のほうが、よほど健全ではないだろうか。誤りがない、と言い切る場合には、誤りがあったときに、すべてが破滅するのである。この構造は、私は教会で味わったことがある。ある牧師が尊崇それていたのだが、あるスキャンダルが発覚した。私は、人間なのだから牧師に誤りがあってもそれを赦しまた育てていくべきだと考えた。なにしろ人間は鼻から息をする。完璧な人間など一人もいないのだ。しかし、牧師という存在に理想をおしつけていた人々は、牧師のその1つの欠陥に食らいついた。これで牧師を全否定し、同様にこれで絶望感を味わった人々と結束して、牧師を追放したのである。その場の中心にいたのが、この神学校を卒業したが神との出会い体験がなく聖書の知識も乏しい者で、そして夫妻であったのだが、牧師を絶対に許せないと叫び続け、教会を裁きの会場に変えてしまった。たしかに罪を曖昧にすることがよいとは思えないが、それ以上に、教会は愛と赦しの場であるという基本すら、学んでいなかった。それほどに、自分自身が神に出会って変えられてなどいなかったのである。教会の分裂はいけないなどという聖書を説いておきながら、自分が牧師を許せないことで、分裂させてしまった。自分が許されたことがなければ、ひとを許すこともできないというのは、聖書が告げている通りである。そして自分では、福音主義であると主張して憚らなかったが、教会を潰すようにしてその教会を去り、その後そのことを知る人のない遙か遠い地に向かい、教会で説教をしている。
 聖書は、幾重にも現実を映し出す鏡となりうるのであって、たとえば福音書にはファリサイ派とイエスとの対立があり、信徒はこれを否応なく味わい、ファリサイ派を徹底的に糾弾するのであるが、いまの時代の中で、自分を正しいとするファリサイ派になった自分の姿には気づかない、という構図は頻繁に見られる。人はどこまでも、自分が見えない。聖書に映さなければ、自分は見えない。自分と神との対話の場が聖書の中になければ、神の声を聞き損なう。そういう怖さがあることを踏まえていなければならないのであって、聖書はすべて正しい、というように神を弁護する立場に身を置いているつもりの擁護者が、どんどん自分の主張や論理を正しい真理だと主張するようになっていても、さっぱり見えなくなるのである。人間に誤りがあるのが当然ならば、人間を通してもたらされた聖書という本に誤りくらいあったってよいのではないか。聖書というフィールドを通して、いまここにいる私が神と出会い、私が変えられることで、私の生き方が新たに始まっていく。それの積み重ねが神の真実であり、神が私たち人間を信頼しているということではないのだろうか。聖書を偶像視する危険性は、自己を絶対化する危険と、隣り合わせだというのが、人間の奥深い罪であろう。
 本書を読んでいて、体験的に感じたのは、このような様相であった。




Takapan
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