本

『エースの品格』

ホンとの本

『エースの品格』
野村克也
小学館
\1050
2008.5

 タイトルは最近流行りの「品格」を用いている。少しばかり目立てば、著者のネームバリューによってある程度売れることは期待できると睨んだ小学館の方針であるかもしれない。サブタイトルは「一流と二流の違いとは」とあり、これまた読者の心をちょっとくすぐるような仕組みになっていると言えよう。
 内容としては、2008年のこの時期にしか読めないものだと言える。週刊誌に連載していたようなもののようにさえ見える。その意味で、これだけの本が、一読されただけで消えていくのはもったいないと感じる。
 いや、読まれただけましではないか、と思われるかもしれない。資源としてのことを言っているのではない。野球哲学として、なかなか実の入った本であるだけに、一時的なものと見られるのはもったいない、と言ったのだ。
 登場するのは過去の、あるいは現役の投手たちである。この本は、投手についての野村哲学なのだ。こんなにズバズバ言っていいのか、と思われるほど、はっきりした者の言い方をする。しかも現在闘っているプロ野球の監督である。考えていることをこんなにはっきりと示していいのか、とちょっと心配したくもなるほどだ。
 言いたいこととしては、自分を高めればチームが勝てるという発想を考え直せ、ということらしい。チームが勝つために自分には何ができるか、へと目を向け直すことが指摘されている。そのことのために、著者が知る限りの日本のプロ野球の投手が俎に上げられる。また、監督としての自分の反省や自慢にすら聞こえる行いも並べられる。それほどに自分の手柄を淡々と示すから却って、客観的な事実であるかのように伝わっていく点も計算に入れているのかもしれない。あるいは、それが出版社の作戦であるのかもしれない。
 驚いたのは、この「チームのために」という野村野球の姿勢が、そのまま「国を愛すること」につながって強調されている点だ。アナクロニズムとして捉えてほしくない、と本人も言及しているが、それにしては、響きが強く、くどい。まかり間違うと、ひどく悪用されたり、勘違いのまま利用されたりしかねない危険性を有するように感じる。
 ゲームとしての野球が、そのチームたちの平等性を前提とし、公平なルールによって営まれていくという背景である上での「チームのために」というのとは違って、安易に持ち出された「国のために」は、平等性も公平なルールもなく、それゆえに一定のゲームであるとは言い難い中で、人命すら利用されていく現場で用いられる言葉となる。たんに比較のためであろうし、たとえのつもりであろうとは思うが、「国のため」が終わりのほうであまりにも強調され過ぎている。もはや軽いたとえのようには響かない有様である。
 野球というスポーツは、たしかにたんなるスポーツとは違う面がある。ベースボールならば、その美しいプレイや勝利も、神の与えたプライズであろうし、またカリスマとして神の与えた才能だと拍手されるのかもしれないが、日本の野球は、どうしてもそこに人生や組織運営といったものの反映として受けとめられるものをもっている。そのような実例は、この本の中でも幾度も指摘されている。かつてのプロ野球の監督が、野球理論でなく人生論ばかり訓示していたという事実である。
 だからこそ、その野球という人生の象徴において、「国のため」というフレーズが必要以上に強調され繰り返されるとき、「それでいいのか?」という見方をどうしても私はしてしまう。まして、それを教育のせいだなどと言及するとき、悪いが興ざめしてしまうのであった。こんなに楽しく、わくわくするような投手の理論と実例が挙げられた本であるのに、この軽率な結論部分のために、これはともすれば危険な本である、と人に紹介しなければならなくなったのである。




Takapan
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