本

『アダムとエバ物語』

ホンとの本

『アダムとエバ物語』
及川信
教文館
\1800+
2012.2.

 教会での講解説教をまとめたものだというが、実によく整っている。というか、短い箇所をどれほど長い期間、掘り下げて探究しているか、そこに味わいを感じる。元来、これくらい聖書と向き合い、そこから神の心を聴こうとしなければならないはずなのだ。
 わずか最初の4章ほどだけがこの一冊にこめられている。しかも、最初の創造はわずかである。焦点は、あくまでもアダムとエバに置かれているからだ。せいぜい三章の堕罪のあたりを、お説教めいて語れば澄むような箇所と思われがちだが、ひとつひとつの表現に目を向ければ、どれほど豊かな恵みがそこにあるか、計り知れない。
 実は、これはただの説教集ではない。副題に「説教と黙想」と掲げられている。実際に説教をして、それから六年後に改めて深く考えて、本書の原稿としている。これが実はいい。語ったときに気づかなかったこと、その後教えられたこと、これらが含まれてきて、豊かな実りをもたらす。これはよく分かる。一度、通り一遍に語ることは、それはできる。もちろん、その時なりに調べたり考えたりして、詳しく、またまとまりを以て語ったつもりではある。だが、それをどこか客観視しながらひとつの土台として、その上にさらにどんな建物を建てるのかということが、その後の生活の中で探され、また決まっていくとなると、かつて想像だにしなかったことに気づき、喜びが湧き出てくる、そんなことがあるものだ。いや、必ずある。私はしみじみとそれが分かる。
 また、一応聖書箇所は純に辿るような形になっているが、行きつ戻りつ関連事項に触れるというあたりも、黙想らしい。読んで過ぎていったところはもう終わりだ、というわけではないからである。その意味では、著者なりの全体像というものが大切になる。このアダムとエバは、途中からあまり顔を出さなくなり、カナンがひとつの主役のようになっていくが、そのカナンの物語も実はアダムとエバの物語の一部なのだ、むしろこちらのほうが重要な視点なのだ、と説明する。人間の原初的形態が如何に温んでいたか、誤ったものが混じっていたか、を幾度も噛みしめていかなければならないのだ。
 だから、楽園を負われたエバが、自分の子をもうけたときにまず口から出た言葉についても手厳しく評価する。それは人間の傲慢を表している、と。こうした読み方を、私は歓迎する。もしかすると、創世記を筆記した人間ですら気づかなかった点を指摘しているのかもしれないし、また逆に、その人間がこめた思いを見出したということなのかもしれないが、とことん筋の通った眼差しを向けて理解していく、そのために格闘する、というのが好ましい。
 さらに、この2人の問題の解決に、キリストが出てくるというのが、説教らしい。ユダヤ人はもちろんそんなことは考えない。しかし、新約聖書を用いる者にとっては、この問題がそのまま問題として残ったままでいるわけにはゆかない。キリストが、しかもそのキリストの十字架が、どうこの問題を超えていくのか、いったのか、それを踏まえた解釈というのが、キリスト教会の説教となるはずである。神は人間を滅ぼそうとしていたのではない。神は人間を愛している。そのための、アダムとエバへの対処であった。まるで罠に掛けるかのように、木の実を置いていた神ではあったが、人間の自由の問題などを交えつつ、著者は黙想を重ねていく。
 それは黙想であるから、必ずしも学術的に本筋かどうか、分からない。時に、著者自身迷いながら思いが揺れているような箇所もある。しかし、読者にとってはそれでいい。読者もまた、一人ひとりが、聖書から聴かなければならないのだ。ひとり神の前に出て、神と差し向かいで問われ、また問いかける。呼びかけられており、それに応える。「あなたはどこにいるのか」に引きずり出された私としては、著者の思いが同じ場面を見、同じように救いを与えられたということが、痛いほど分かる。そしていまもなお、私はそこから離れては自分の信仰はないと思えるのだ。私にとり、心躍るような本であった。




Takapan
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