本

『資料で読む 世界の8月15日』

ホンとの本

『資料で読む 世界の8月15日』
川島真・貴志俊彦編
山川出版社
\2625
2008.7.

 図書館で借りてみたのだが、資料性が高く、ラインを引いていきたいと思ったので、紀伊國屋書店に注文して届けてもらった。決して安い本ではないが、貴重な諸外国の新聞もそこに掲示されているからには、損な買い物ではないと思った。
 八月十五日という日付についての日本人の「記憶」がどこから来ているのか、という問題については、佐藤卓己氏の『八月十五日の神話』が鋭い切り込みを見せてくれた。私はもっとこの指摘がもう常識として広まってもらいたいと思うが、これをどう解釈するかについては、それぞれの人の立場によりまた違ってくることだろう。
 この資料集は、この佐藤氏の新書と連動しているのだという。そのことは最初知らずに図書館で手に取ったのだが、「はじめに」と「あとがきに代えて」にもそのつながりが記されているところを見ると、いかにかの新書のインパクトがあったかということが分かる。当たり前のことを、当たり前だと言えないような空気が、戦後60年の中にあったのかもしれない。いや、八月十五日という特別な日が、いわば意図的に定められたと言えるのが、凡そ1955年だとすると、ちょうど半世紀にわたり、それが当然のものだと、次々に人々に刷り込まれてきたのである。
 この資料は、4つの部に分かれていて、まず日本、次に台湾から朝鮮と満州、それから欧米とソ連、中国。最後に、東南ないし南アジアにおける八月十五日の扱いやその国における終戦の記念日の認識が明らかにされる。その前後の事情と当日などの新聞あるいはラジオ演説などの内容がそこに紹介されている。従って、佐藤氏の新書に比較して、どちらかと言うと海外における扱いを詳しく伝えるものとなっていると言えるだろう。
 1945年の夏は、世界大戦と呼ばれるほど、世界の中の多くの国々を巻き込んで変貌を遂げることとなった。世界の地図を書き換えるような結果をもたらした。それぞれの国における立場や視点があり、日本をどのように見ているかという景色もここに知ることができる。日本人が自分たちの言い分だけを通している中で、では他から見たらどうであるか、を知ることは必要である。また、そういうことができなければ、リーダーになる資格はない。何も世界のリーダーにならねばならない決まりはないが、経済的にも政治的にも、決して小さくはない力を有し立場をもっていると考えられる国にあっては、そうした責任も覚える必要はやはりあるのではないだろうか。かといって、他国の言い分にすべてを譲ればよいというものでもなく、どう宥めてどう平和を創造するかという点は、単純に結論づけられる方法に拠るものではないはずだ。
 この本の冒頭の、日本におけるメディアの働きについて、佐藤氏が担当している。ここから、様々な人の稿により、お盆という、佐藤氏の観点が深められた後、同じ日本内でも、北海道や沖縄からの視点が、そして在米日系人の立場などが示される。こういうところはやはりじっくり読んでおきたい。この後は、専ら日本国外からの見方となる。
 人間、視野が広くなるというのは、同じものであっても、自分の立つ位置とは違うところから、見えるようになる、ということである。ただ海外旅行に行っても、日本にいるときと同じような見方しかできず、言うなれば、自分が全く変わることなく帰ってくるだけだとしたら、それは視野が広くなったことにはならない。別の視点を経験すること、そして自分が変えられていくという体験なしには、視野が広くなるということなどありえないものである。
 この本は、それを体験させてくれる、一つの方法ではなかろうかと思う。




Takapan
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