本

『1日3分 脱「日本人英語」レッスン』

ホンとの本

『1日3分 脱「日本人英語」レッスン』
田邊祐司
ティモシー・ライト
朝日新書163
\777
2009.2

 国際理解などという、大きな看板を掲げて、英語教育が取り上げられる時代である。その的の絞り方が、小学校で英語を教科にしようなどということに落ち着こうとしている。
 アメリカのマクドナルドに入り、ハンバーガーを注文できるようになることが、国際理解なのだろうか。英語で道を尋ねたり教えたりできるようになることが、国際理解というものなのだろうか。
 その国際理解を十分学んだ日本人が、英語を流暢に話しつつ、取引先の会長に向かって"There's a sofa over there."と言った実例を挙げ、こうした、使われ方の点で英語を理解しないといけないこと、あるいは「運用知」ということが、極めて重要なのではないか、と著者は提案します。この文は、日本語に訳すと「あそこにソファがあります」だし、日本人はそれで、そのソファを提供されたのだ、と受け取るかもしれないが、英語だとこれが、そこまで言って座れ、と聞こえるのだ、と説明されている。
 語感も大切である。しかし、悲しいかなネイティブでなければ、語感はあくまで私たちが学習して得た基準によるものとなる。それでも、学ぶことは不可能ではない。悲しいのは、そのような語感を知らずに、学習した英語で通じるのだ、と自分の論理を適用してしまう、まるで旅の恥はかき捨て的な日本人の振る舞いである。国際理解というものを目指すのであれば、生活様式を含め、その語にまつわる背景や文化、歴史などをひっくるめて理解しようという思いが必要なのではないだろうか。日本人による、日本人のための英語をぶつけていくのではなく。
 だから、ハンバーガーが注文できた、というようなものを目指す英語の捉え方ではなく、文化など相手を理解しようとする姿勢が重要である。これが、国際理解に直結する可能性のあるものなのである。
 有名な知事を知っている(know)とか、ハリウッドスターに会った(meet)が、日本語の語感とはひどく違うことなども、説明してある。それぞれあるシチュエーションを会話で描き、日本人の口にする英語が、実に空気を読んでいないことを取り上げ、どうしてそうなるのかなどが詳しく説明されている。"You must be tired"が「お疲れさま」であるような気がする日本人の勘違いも、実例会話文の中でよく分かるように指摘されている。このように面白い例がふんだんに取り上げられている。
 まさにその「お疲れさま」という挨拶自体が存在しないのが、英語の文化であるのだ。それは何故か、そう言わない心理、そういったことを理解していくことのほうが、国際理解と呼ばれるにより相応しいのではないか
 そうなると、聖書を知ることは、英語を使うときに必須であるというふうになるだろう。それはこの本に書かれていることではない。でも、そんなふうに思いませんか。




Takapan
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