本

『主よ 一羽の鳩のために』

ホンとの本

『主よ 一羽の鳩のために』
須賀敦子
河出書房新社
\1800+
2017.3.

 日本文学をイタリアに紹介した功績あつい作家であり教授であった。とはいえ、実のところ私は今回の本で初めて出会ったので、著者については何も知らないも同然である。逆にイタリア文学の翻訳でも活躍していた方でもあるが、実はご本人の詩というのは珍しいということである。
 解説は池澤夏樹氏。親交があったのだろうか、これらの詩が発見されたとあって、本書の制作に関わったものである。詩の翻訳をたくさんした須賀さんが、自身詩を作らなかったはずがない、とはいうものの、今回見つかったのは1959年に書かれたものだけであるという。さて、それは偶然一部分だけとして見つかったに過ぎないのか、それとも神がその一年だけを詩作に許してくれたのか、それは定かではないとするものの、池澤氏は、彼女の1960年の結婚に関係する事柄ではないだろうかと推測している。
 扉に、自筆の原稿の写真が収めてある。実に美しい文字で書かれている。多くは題すら決められていないため、括弧付きで、詩の冒頭の言葉を詩の題のように扱って編集されているが、それでも立派な詩の題になりうるような気品が感じられる。
 池澤氏は、どの詩にも、背後に神を感じたようで、「この本のすべての詩の背後にキリスト教がある」と書いている。それを感じ取るのも、さすが文学者であるものだと思う。そうだと明白な詩も確かにあるが、すべてがそうであるわけではない。それを感じ取っているのである。
 私は分かりやすいものにまず心が惹かれた。初めのほうにある詩で、「おかあちゃま じかんってどこからくるの?」に始まるものに心を揺すぶられた。おとなたちがその問いにどぎまきする中で、やがて詩は「そのむかし/こどもよ/ひとは/じかんをもってゐなかったのだ。」と説き始める。それは創世記の情景だったのだ。エデンの園でひとは時間をもっていなかった。この感覚に打たれた。しかしあの「ひとりの をんなと/ひとりの をとこが」誤った。それは愛を殺すことだった。それ以来時間が我々を待つようになったが、それが我慢できない人間は時間を殺そうとしている、と見抜く。結末はここには記さないが、感動的な詩であった。
 池澤氏はこのようにも書いている。「ぼく自身は信仰について何も知らないまま、信仰ある人々は常に内心で主に話しかけているのではないかと想像している。祈ることは勝手な欲望を訴えることではなく、まずもって語りかけること、答えを期待しないままに思いを伝えること、それによって結果的に自分を律することではないだろうか」と。
 美しい詩は、実のところかなり深く心をえぐることがあるものだが、そのようにしても、やはり美しいものは美しい。言葉に対して禁欲的な者は、最も多くの力をそこに有しており、その力に無頓着な輩は、人生の宝に気付かず通りすぎる損な奴らである。私もずいぶん見過ごしてきたに違いない。その中で本書に出会えたことは、すべてが損ではなかったことの証しとなるのかもしれない。
 2018年、須賀敦子の没後20年を記念して、寄贈された原稿などがイタリア文化会館で展示されることが報じられた。私はちょうどよい時に本に出会えたことになる。




Takapan
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