本

『主の十字架の奥義』

ホンとの本

『主の十字架の奥義』
アンドリュー・マーレー
いのちのことば社
\650
1988.1

 すみません。この本が今入手可能なのかも、価格がいくらになるのかも分かりません。
 でも、いい本です。
 この本は、教会の本棚から借りて読んだ。教会には、こうした霊想書がよくある。小冊子と呼んでもよいほどの分量であるので、もっと多くの人が読んだらいいのに、とも思うが、さして借り主はいない。
 もちろん、自分で買って所有しているのかもしれないのだが、さしあたり借りて読み、それが実によかったら買う、という方法もあるだろう。出版社には申し訳ないが、そのようにして良い本にたくさん出会うようになった人は、きっとまた、買うことにも動いていくものであるから、目を瞑って戴きたい。
 この本は、31の日付で分けてある。毎日読めば、一ヶ月で読み終える。それで終わりとすべきではなく、また次の月も1から読めばいい。こうして一年で同じところを12回読むことができる。そのように計算してあるのだろうと思う。一日分が新書のような版で2頁かそこら。全く負担にならない分量である。
 分量としてはそうなのであるが、内容は実に重い。一行読むだけで霊的な連想は地球を何周分もさまよいそうである。それもそう、この霊想は主の十字架を中心に巡り続けている。それも、福音書をただ辿っているだけではない。後半ではパウロ書簡に及び、パウロの十字架理解、救いの神学に及んでいる。そして、私たちがそれを引き受けて義の歩みを始めるというところにまで、読者である私を引っ張っていく。
 たとえ話や体験談で文字数を稼がず、純粋に霊想に走っている。聖書の引用をいくつかするくらいで、あとは実に素直に主の十字架に寄り添うように言葉が歩いていく。
 クリスチャンは、ここから離れてはいけない。どんなに表向き違うことをやっていても、必ずここに戻って来なければならない。まして、ここを経ることなく、クリスチャンであるとか、まさかとは思うが、「牧師」であるとか言ってはならないのである。
 それは、徹底的に自己を明け渡すことである。自己に死ぬことでもある。だが、そんな簡単に言い表すことさえできないもどかしさがある。そのために、この小冊子が書かれている。十字架の栄光について、最低の文字数で描いたのはもちろん福音書であるのだろうが、それをより誰にでも分かりやすいような形で呼びかけつつ記述したものとしては、この本がその次に分量の少ないものと言ってもよさそうである。
 どこへでも持っていける。聖書そのものを持って出かけるのももちろん最高にすばらしいが、このように霊想の頼りになるものを携行していると、いつでもどこでも、心を穏やかにすることができそうである。もちろん、そういう自利のためにこの本を使うということを勧めるわけではないが、それくらいに、霊的な平安を与えてくれることが間違いないという本なのである。




Takapan
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